山の冷気を胸いっぱいに吸い込んでみたいと、走り出した高速道路、

行き先は決まっていなかった、

カーラジオからは小諸辺りの事故で高速道路は通行止めとのこと、

「湯の丸高原はムリかな」

ぶつぶつと独り言、

何時もなら目の前に榛名と赤城の山並みが広がるはずの景色も、

全くの霧の中、

「そうだ、赤城の山なら霧に咽ぶ中で

あのレンゲツツジが楽しめるかもしれない」

そうと決まれば、迷うことはない、 赤城からっ風街道 を一気に

駆け上がる。

100m毎に記された小さな標識を横目に走りなれた山路を快適な

気分でコーナーを曲がる毎に車に取り付けた気温計がまるで

嘘のように下がっていく。

前橋では身体に絡みつくような暑い湿気も、海抜1200mでは

気温も18度まで落ており爽やかささえ感じる。

何時もの牧場へ着いた時、居合わせたのは桐生からいらしたという

元気な老夫婦だけ、

「いやー来てよかったよ、蓮華躑躅は今日が一番の見頃だね

昨年は確か二日くらい早かったのに、今年は正にどんぴしゃですよ。」

お互いに、真っ赤な蓮華躑躅をバックに記念写真を写し合い、

「満足したからこれで帰るよ」

というお二人とは此処でお別れ、

かつて日本人の好む風景というのは日本三景にみるように

穏やかな海に浮かぶ小島、

緩やかな浜の続く白砂青松、

が好まれておりました、

高原や白樺が風景として好まれるようになったのは、

明治維新とともに大波のように押し寄せてきた西洋文化の

価値観に違いなく、今や白樺高原などは代表的なこの国の

風景のひとつにしっかりと根付いているのですね。

海抜1400m、地蔵岳の中腹に広がる白樺牧場は、すでに

100年の歴史をもつ、

広大な牧草地には蓮華躑躅が見渡す限りに広がっている。

放牧された牛が長閑に草を食む姿を眺めながら

「そういえば、これだけ広がる蓮華躑躅を牛が

絶対に食べないのはどうしてなのだろうか」

勿論、蓮華躑躅はその美しい姿とは裏腹にもし牛たちが

食べてしまうと痙攣毒により呼吸停止を引き起こすことも

あるのです。

じっと見つめていると、確かに牧草はむしる様に食べていくのですが、

決して蓮華躑躅には見向きもしないのです。

人間の食文化の中にも、それを食べてしまったために死に至ることが

沢山あり、その体験から人は学習し、現在の食材が残されているのですが、

それでは、牛や馬にもそういう体験があったのでしょうか、

母親がその毒性をどのように子に伝えていったのか、それとも

生まれながらに、毒を避ける何らかな本能を持ち合わせているのか

こればかりはいくら眺めていても判らないことばかりですね。

『美しい花には棘がある』

なんて昔の人は面白いことわざを残しておりますが、

棘なら触っただけでわかりますが、『美しい花には毒がある』というのだけは

見るだけにしておかないととんでもないことになりますからね。

山の天候は女性の心より変わりやすいもの、

大沼の辺には雲が少しずつ垂れ込め初めている、

オートバイでひとりでやって来た若者は、あまりの静けさに

詩人になりきっていた、

そのうちしきりに時間を気にし始める、

「暗くなると一人は案外怖いものですね」

「まだ7時か、今からなら暗くなる前に山を下りられるよ」

若者は、あまりの静寂に耐えられなかったのだろう、

「お先に!」

と言い残すと、短気筒の軽やかなエンジン音を残して

山を降りていった。

やれやれ、いよいよ独りか!

山を覆い始めた雲はやがて霧に姿を変えてあっという間に視界を

遮ってしまった。

覚満淵は全くの霧の中、まるで手探りでも歩けないほど、

時間を確かめるともう間もなく夜の8時を迎えようとしている、

海抜1400mの鳥居峠の上はまるで白夜のよう、

すぐ目の前の木の上でホトトギスが鳴いた、

息を殺して、その声に聞き入っている、

やがて少しずつ闇が辺りを覆い始めると、

その鳴き声は深い愁いを秘め初めてくる、

姿を見せぬその声は、あの世から叫んでいるのだろうか

その余りにも哀しげな声に何も見えない霧の中で

体中の神経が総毛だっている。

 「こゑはして雲ぢにむせぶ時鳥

    涙やそそく宵のむらさめ」

     『新古今集』式子内親王