「この浜はオラノハマだと言い張った名残が

 小良ケ浜の名の起こりだって言うだよ」

道を尋ねた老人はそう答えた、地名の起こりなどは

案外そんなものかもしれない。

大正時代、小良ケ浜村は戸数70余、人口350の半農半漁の村でした。

しかし、目の前に広がる海を前にしながら、海岸線は切り立った

断崖が続き、漁船を停泊させる港がなかったのです。

網元であった三瓶一見は此処橋の沢の断崖に囲まれた天然の入江を

めぐる断崖に、海に繋がる湾洞を穿てば船を出せる港が出来ると

判断し、村の人々に掛け合ったが誰も耳を貸すものはなかったという。

一見はその湾洞を穿つためにたった一人で、私財を投げうち、借金を

しながら、三年の歳月の後、大正7年ついに小良ケ浜漁港を誕生させた

という。

その小さな漁港はその後80年に渡り、機能し続けたが今は海の侵食により

閉港してしまった。

「小良ケ浜漁港跡へは行かれますかかね」

「駄目だよ、港に通じる道が海の侵食で通れなくなってるんだ」

その老人は、危険だから行かないようにと注意を喚起してくれた。

「手前に灯台があるからそこまでなら行けるよ」

お礼を言って断崖の上に立つ灯台を訪ねた。

なるほど、海は遙か眼下、足のすくむ高さで後ずさりしながら

ふと足元を見ると草むらに石碑が建っているのです。

其処には

『鎮魂 波こそわが墓標 曙光がこの碑を飾れ』

と記されていた。

昭和18年春、祖国存亡の危機に直面している時、北東方面は

山崎大佐以下アッツ島守備隊が攻防の真っ只中にあった。

5月29日、ついにアッツ島は全員玉砕した。

そのアッツ島を九七式海軍大型飛行艇一機が日本の横浜を目指して

飛び立った。

そこには海軍パイロット、整備兵等、15名の兵士達が乗っていた、

昭和18年6月9日の朝、ここ小良ケ浜の断崖はヤマセによる濃霧が

発生していたという。

その白い魔の手はその飛行艇をこの断崖の下の海に引きずりこんで

しまった。

15名の兵士は潮騒の中に消えたのです。

秘密裏の行動だったのか、その後、50年間この事故のことは

公表されなかったのでしょうか、

平成5年3月31日に、遺族、邦人の手により、

15名の諸勇士の安らかな眠りを祈り、後世に伝え残すために

この『波の碑』が建立されたのです。

しかし、その真実は、全員の死亡により誰も知ることは

出来ないのです。

今は訪ねる人もない草に覆われた断崖の上で、

じっと海を見つめているだけです。

私は思わず手を合わせておりました。

裏面には15名の名が確りと刻されている。

今年もあの忘れてはならない8月が始まったのですね。

その断崖を後に、熊川の浜に降り立った、

ここからはるか崖の上にあの『鎮魂の碑』あることなど

誰も気づかないだろう。

そっとしておくことを望んでいるように、

空に向かって一羽の鳩が飛び立っていった。

旅はいつでも出逢いの連続ですね、

65年前の魂に出会った旅の途中でのこと・・・

2010年7月 陸前浜街道 小良ケ浜にて 記す

八年後の夏、あの時の出逢いはもしかしたら

夢の中の出来事だったのだろうか・・・