美しい櫻の在り処を尋ねると、その老人はその小さな橋の上で

しばらく黙ったままでいた。

「あることはあるんじゃがな・・・

 わしも一度だけしか行った事がないんじゃ、それはそれは美しい花の里でな、

 これは桃源郷に違いないと思ったんじゃが、その花がみんな櫻ばかりでな」

「それじゃ櫻源郷じゃないですか」

「果たして教えていいものかどうか・・・」

「ぜひこの目で見てみたいですよ、どうかその櫻源郷がどこにあるか

教えていただけませんか」

私は何度もその老人に哀願いたしました。

「ひとつだけ約束を守れるかな」

「はい、必ず守りますから」

「そこで出逢った人には声を掛けてはならねえぞ」

不思議なことを言う老人にお礼を述べると、

教えられた道を歩き始めましてね。

川に沿った道はやがて山に分け入るように少しずつ登り始めましてね、

道野辺で最初に出逢ったのは天にも届こうかと思われる一本櫻でした。

首が痛くなるほど見上げた櫻からほんの一瞬目をはなしただけだったんです、

もう一度見つめ直すと辺りからすべての音が消えていたんです。

誰かに背中を押され、前からは手を引かれるようにその山道を登って行きました。

小さな峠に行き着くと、その目の下に小さな集落が見えてきましてね、そして

その集落はすべて櫻の花に埋もれているではないですか。

私は逸るこころを抑えながらそれでもその下り坂を走るように

駆け下りていったのです。

あの老人が言っていたのは此処に違いありません。

こんな美しい花の里があったなんて・・・

それにしてもこれだけ家が立ち並んでいるのに

物音ひとつしないんですよ。

妙典桜、宝寿桜、常泉坊桜、高屋敷桜、地蔵桜・・・

どの櫻にも名前が書いてあるんですが、誰も見ていないなんてもったいないな

そんなことを考えながらお寺さんの境内に咲く妙典櫻の前に来ると

一人の老女が腰に手を当ててその櫻を見上げているんです。

随分似てる人がいるもんだな、と思ってその老女に近づくと、

その老女が振り返ったんです。

「あっ!おふくろ」

あわてて口を押さえました。

あの老人との約束を思い出したからなんです。

久しぶりに逢ったお袋はあの優しい微笑みを見せながら

何度も頷いてくれておりました。

私は口を利かなければ大丈夫だろうとあの慈愛にあふれた

懐かしいその手を握り締めようと一歩近づくと、

今度は悲しいそうな目で頭を横に振るのです、

「それ以上近づいては駄目!」

と無言の意思なんです。

じっとお袋の瞳を見つめていると

「何も心配することはないよ、

 大好きな櫻もこうして見られるのだからね」

そう語ってくれましてね。

くるりと背をむけると、あの独特のすり足のような歩みで

その境内を後にしていきました。

私は胸の締め付けられる想いで後姿を見送っておりました。

私はその花の里を下を向いたままトボトボと歩いていると、

路地の先から一人の男が現れたのです、

「おーい!N村、どうしたんだ」

私は声を掛けてしまった。

先日、昔の仲間と久しぶりに会った際にN村のことが話題になったので

ついあの老人との約束を忘れてしまったのです。

N村は悲しそうに私を見つめると、手を何度も振りながら、

「これ以上此処にいるな、早く戻れ」

というのです。

「お前が逝ってしまった理由が誰もわからないんだ、

 どうしても聞きたかったのに」

確かにN村の目には涙があふれていたことだけは確認ができました。

確かにそこは櫻の園でした、

どこをどう歩いてきたか今は思い出せません、気づいた時は

あの老人と出逢った橋の上に佇んでいたのです。

ただ涙が止まらなくなったことだけはよーく覚えているのですが・・・

櫻に引かれて続けていた旅も、いつのまにか鯉幟が風に泳ぐ季節に

なっていたんですね。

その橋の上で、今年の櫻旅はここで終わりにしようと決めておりました。

それにしてもあの花の里は本当に櫻源郷だったのでしょうか、

あの老人も春の櫻の季節にきっとあの花の里を訪ねたのでしょね。

私はどなたに尋ねられても、あの櫻源郷への道筋は話すことはないでしょう。

あそこは美しいけれどとても悲しい櫻源郷なのですから・・・