傘など役に立たないほどの横殴りの雨が

瞬く間に全身をずぶ濡れにしてしまう。

「やはりこんな日は無理だったか」

もしかしたら満開の桜に出逢えるかもしれないという

儚い望みはその雨と風に遮られてしまった。

たまらずに駆け込んだ湖の船着場には観光客の姿はなく

閑散とした待合室を兼ねた土産売り場の店員が大きな

あくびをしていた。

動くに動けぬまま降り止まぬ雨を窓越しに眺めていると

人の気配が・・・

振り返ると真っ白なアゴヒゲを伸ばした独りの老人が

親しげな顔で近づいてくると

「隣に座ってもいいかね」

椅子という椅子は誰も座っていないのだから何処でも

座ればいいものをわざわざ隣へ座るというのは

話し相手になれということか と

「どうぞ、どうせしばらくは

外には出られそうもありませんから」

その老人は何度も頷くと、突然 桜の話を始めるのです、

「あなた桜はお好きですよね」

妙な聞き方をする老人だと思ったが、ずばり確信を突いてくるので

思わず頷いてしまう。

「桜がお好きなら当然京都にも行かれますよね」

「ええ、枝垂れ桜は京都が一番似合いますからね」

すると老人はその枝垂れ桜についてこんな話をするのです。

「平家が全盛の時代の永暦元年七月、

藤原清輔邸で歌合せがありましてね

その席で顕昭僧正が詠んだ歌に

 『わぎもこが はこねの山の糸桜

  結びおきたる花かとぞ見る』

その糸桜というのは、この箱根の山中で見つかった糸桜なのです

実は江戸彼岸の突然変異で枝垂れ桜だったのですよ。

その枝垂れ桜はこの箱根から京の都へはこばれましてな、

今まで山桜しかみたことのない都人は僅かな風にも

揺れるその桜の風情にこころ奪われましてな、以来、

都の寺社や貴族の邸宅にこの枝垂れ桜がひろまったのですよ」

「えっ、それでは枝垂れ桜の始めはこの箱根だったのですか」

「箱根の枝垂れ桜をご覧になりますか」

「あるのですか」

老人は案内すると雨の中を歩き始めるのです、

慌ててその後を追うと、案内するにしてはやけに

歩き方が早いのです、

息を切らせてその後ろを追いかけると、道の角を曲がった先で

その姿が消えてしまったのです。

「なんてこった」

相変わらずの雨風にずぶ濡れになりながらもう一度前を向くと

あの老人が手招きしているのです。

そして其処には大きな枝垂れ桜が確かにありました。

その桜の木の下に駆け込むと老人の姿は何処にもないのです。

その時その桜が大きく枝を揺らしました。

「もしかしたらあの老人は桜の精・・・」

なんだかこの嵐のような雨風の中で見上げていると

枝垂れ桜の初りが箱根の山中からだと信じられる気が

してきました。

誰もいない雨の中にすっくと立ち上がる桜の下で

まるで幽玄の中に佇んでいるような思いでした。

花を愛するというのは、このような全てが

静止したような瞬間に感じられることなのかも

しれない。

桜の美しさとは夢幻の世界を彷徨うことを

可能にしてくれるのです。

今でもあの老人は箱根の桜の精に違いないと

信じているんですから・・・