下総国佐倉は土井利勝によって佐倉城が

築城されて以来、徳川譜代による佐倉藩に

より江戸城近郊の防衛拠点として明治維新

まで続いていた11万石の城下町なのです。

城主は松平家→小笠原家→土井家→石川家

→松平(形原)家→堀田家→松平家→大久保家

→戸田家→稲葉家→松平(大給)家→堀田家と

めまぐるしいほど代わり続けたのですが、

第二十代堀田正倫公(1851-1911)は最後の藩主

として、明治維新という激動の時代の中で翻弄

され続ける人生を送ることになるのです。

安政6年(1859年)、父が井伊直弼との政争に

敗れて失脚したため、正倫公はわずか九歳で

家督を譲られ藩主の座に着かされてしまうのも

時代が生んだ運命だったのでしょう。

幕府に対する忠誠心旺盛だった正倫公は、

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、

将軍徳川慶喜に対して朝廷から討伐令が下ると、

上洛して慶喜の助命と徳川氏の存続を嘆願するも、

新政府から京都に軟禁状態とされてしまう、

江戸城開城の後、佐倉城も開城をせまられ、

ここに四百年続いた佐倉城は終焉を迎えることに

なるのです。

廃藩置県後、新政府の要職に着くこともなく

東京で華族として生活をしていたのですが、

明治23年佐倉に戻ると農業と教育の発展の

ために尽力し、明治30年に農業研究機関

として堀田家農事試験場を作り、

また佐倉高等学校記念館は、堀田正倫公の

寄付によって明治34年に建てられたものです。

正倫公の晩年は地域文化の発展のために寄付

を続ける生活であったと伝わっています。

昨年の秋、佐倉麻賀多神社祭礼のため佐倉詣り

をした際、その余りの華やかさにさすがは

下総第一の大藩と唸らされましてね、

あれだけの祭りを今も続けている佐倉の街を

ゆっくりと訪ねてみようと、わざわざ雨の日を

選んでやってまいりました。

訪ねたのは、佐倉藩最後の藩主堀田正倫公が

明治23年に東京から佐倉に戻られた際に築かれた

という旧堀田邸です、

明治期における上級和風住宅は、正倫公の意志が

反映されているのでしょうか、華美なものは極力

廃され、旧来の武家住宅に新しい時代の生活に

合わせた部分が随所に見られるものでした。

明治期の庭師、伊藤彦右衛門による庭園部分は

高崎川や下総台地を借景に松、百日紅、躑躅等を

取り入れた伸びやかな明るいもので、座敷からは

座ったままの位置から眺めた時が一番見ごたえが

あるように作庭されているのも、こころが休まる

見事な庭園なのです。

降り続く雨のため、どうやら客は私ひとりである、

庭の木々は雨を含んでますます緑を輝かせている、

この座敷から外を眺めながら、正倫公は何を想った

のでしょうか、

徳川幕府の崩壊を幕府側の一員として迎えた日々は、

政治とは一線を引き、文化活動に、農業活動に

一身を捧げるために寄付行為を続けた生き方に

無言の意志を感じないわけにはいかないのです。

あの二ヶ月前の震災で倒れたのだろうか、庭の

石灯籠が崩れたまま雨に濡れておりました。

(2011.05.07記す)