由比ガ浜と七里ガ浜を分ける岬、

冷たい海風に吹かれながらその岬の突端、稲村ガ崎に立つ。

鎌倉の歴史に興味を持つ者なら、あの新田義貞鎌倉攻め、

若いカップルには絶好の夕日ポイント、そして稲村ジェーンでも

口ずさむのだろう。

鎌倉の友人宅に住み着いていた学生時代、

そんな歴史や甘い囁きには目もくれず、

この海に沿う道路を2シーターのオープンカーを

飛ばしていたのはもう遥か大昔のことになりました。

その当時、稲村ガ崎といえば、あまり楽しい印象はなく、

大先輩達が歌う「七里ヶ浜の哀歌」が切なさを伝え、

「先輩、もっと楽しい歌はないのですか」

などと罰当たりな若者むき出しで突っ張っていたのですよ、

久し振りにこの岬から夕日を眺めた、

こんなに美しかったんだ・・・

若いカップルが夕日を見つめていた、

傍にあるあの悲しい兄弟の像には気づかずに

「寒い!寒い!」を連発しながら立ち去ってしまうと、

その冷たい海風を独りで引き受けることになってしまった。

明治43年1月23日、あの悲しい事故が目の前の海で起こった、

小学生ひとりを含む十二人によるボート遭難事故は当時、

類を見ない悲惨な出来事だった。

鎌倉女学校教師の三角錫子は、その12人の若き御霊に

「七里ガ浜の哀歌」を捧げた。

その歌があの大先輩が歌ってくれた曲なのです。

40年の時を超えて、耳元に聞こえるその歌を一緒に口ずさんでいた。

「七里ヶ浜の哀歌」作詞:三角錫子

真白き富士の根、緑の江の島
仰ぎ見るも、今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心

ボートは沈みぬ、千尋の海原
風も浪も 小さ腕に
力も尽き果て、呼ぶ名は父母
恨みは深し、七里ヶ浜辺

み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて
月も星も、影を潜め
みたまよ何処に迷いておわすか
歸れ早く、母の胸に

みそらにかがやく、朝日のみ光
暗に沈む、親の心
黄金も宝も、何にし集めん
神よ早く、我も召せよ。

雲間に昇りし、昨日の月影
今は見えぬ、人の姿
悲しさあまりて、寝られぬ枕に
響く波の、音も高し

帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に
我も恋し、失せし人よ
尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
今日も明日も、かくてとわに

夕闇がもう江ノ島の島影を消しかけていた。

今は亡き大先輩は、何処かで涙しながらこの歌を

口ずさんでいるのだろうか・・・

誰も居なくなった七里ガ浜に冬の波が繰り返し繰り返し

打ち寄せていた。

稲村ケ崎にて