私が丹波山村を初めて訪ねたのはもう40年ほど

前のことになりました。

その当時通い詰めていた奥秩父や八ヶ岳の山々からの

帰り道、地図の中に一本の道を見つけ、塩山から甲斐の

山の中に紛れ込んだのです。

延々と続く山道は、秋の紅葉と重なりまるで夢の中を

さまよっているような気分でした。

武田氏の隠し金山と言われた黒川金山やおいらん淵の

悲劇などを目の当たりにして息を呑んだりと、その山道は

忘れられない旅になったのです。

それ以来この通称青梅街道(国道411号線)へ足しげく

通い始めたのは歴史への好奇心ではありましたが、そんな

旅の途中で空腹に誘われて立ち寄ったのが丹波山村だったのです。

立ち寄った食堂で聞いたのは、祭りの話、

「正月の七草にお松曳きをやるんだよ」

「お松ひきってなんなの」

「正月に飾った村中の門松を集めてな、みんなで修羅に乗せて

道祖神まで引っ張っていくんだよ、そりゃ楽しいもんだ」

三百年も続いているという「お松引き」の行事もその話だけでは

想像できず、そのうち記憶から消えてしまっていたんです。

昨年の夏、久しぶりに丹波山を訪ねたおり、当時の人口が

半分に減少している事実を知らされましてね。

確かあの当時は1500人くらいの人口だったはず、それが今は

700人を切ってしまったというのです。

その話を聞いたとき、昔聞いていた「お松曳き」を思い出して

訊ねたのです。

「お松曳きは今でも続いているのですか」

「ああ、やってるよ」

一月七日を待ちわびておりました。

丹波山村へは公共機関の乗り物ではとても日帰りはできません、

この時期夜間は気温0度を下回るためタイヤを冬用に替えて

丹波山を目指します。

都心から125km先の山の中です、どんなに急いでも3時間以上は

かかってしまうのです。仕事を済ませて青梅から奥多摩を抜け

丹波山村へたどり着いた時は、もう真冬の陽は山の向こうへ沈みかけ

あのみんなで修羅を曳き回す肝心の行事は終わっておりましてね、

それでも、道祖神の前では、これから小正月まで、その運んできた

角松や竹を山に盛り上げる仕事が残されていたのです。

そもそも、なんで車の無い修羅を使って運ぶのでしょうか、

修羅というのは、大昔、古墳や石垣を作るときに大石を運ぶために

使われた運搬道具でいて、太いアカカシのY字形の部分を橇(そり)の

ようにして運ぶものなのです。

いくら祭りの道具としても、運搬のためにこの修羅を使うなどという祭り

は未だかって見たことがありませんよ。

周りが山また山の丹波山村では、たぶん山仕事に使われていたんですね、

それにしてもその大きさは若い衆が15人ほどでやっと押せるような大きさ

なんです、その修羅の上に、村中の角松を乗せると、重さは二トンを超える

らしいのです、太い綱を結び、村中総出で熊野神社からここ道祖神まで

二時間以上かかって引っ張ってくるという、まことに人間味あふれる

正月行事なんですね。

ひとりふたりの力持ちが居てもびくともしない修羅には歳神様も一緒に

乗られているわけで、大勢で力を合わせて運ぶところに大切な意味が

あると教えられましたよ。

運んでくる途中では、ミカンや餅が蒔かれ、お神酒の振る舞いが続いたの

でしょうか、道祖神前ではもうみんな酔っ払いの集団ですよ、

道路わきに片付けられた修羅は即席のベンチに早変わり、あっちからも

こっちからも、口は出すけれど手は出さぬ老人たちの叱咤激励が飛ぶ、

若い衆たちも、もう破れかぶれみたいに大量の角松を山に築きげていく。

「随分楽しそうにやるんですね」

「大笑いしながらやらなけりゃ、しんどくてやってられないですよ」

数少ない歳男の若衆がニコニコしながら松の山を盛り上げていく。

最後に、修羅の先頭で睨みを効かせていた干支の馬を飾ってすべてが完成

いたしました。

疲れと酔いでフラフラになりながら、皆さんが集落へと戻ってしまうと

ぽつんと私だけが残されておりました。ここまで見届けたのはどうやら

私だけだったようです。

あの馬は、これから一週間この角松をすべて燃やすまで、こうして睨みを

効かせながら松の山を守るのでしょうね。

今年は元旦が新月でしたから小正月はまん丸の月というわけですよ、

もういちど、小正月のどんと焼きを見たくなりました。

多分、訪ねてくるでしょう、あの楽しそうな皆さんに会うためにね。

2014年1月7日 記す