(平成27年 波除稲荷・水神社合同神輿渡御)

今では 築地 といえば魚河岸の代名詞のように感じますが

魚河岸が築地に移ってきたのは昭和10年のことなんですね、

江戸に幕府を開いてからというもの、江戸の魚河岸は日本橋に

あったわけで、魚河岸の人々は神田明神の遷座とともに神田台に

「水神社」をの社殿を新築し、維新後は「魚河岸水神社」と改名

して、祭神弥都波能売命(ミズハノメノミコト) を祀って

いたのです。

(左 波除神社神輿、右 水神社神輿)

明治34年に魚河岸水神社の「水神祭」が行われてから

大正9年、11年、と三回祭礼を行った後、関東大震災で日本橋魚河岸は

壊滅状態に陥り、昭和10年に現在の築地に新たに市場を移したのです。

その築地市場(場内市場)に、神田明神境内の水神社本殿を拝めるように

遙拝所が建立され、魚河岸水神社として篤い崇敬を受けているのです。

しかし、この魚河岸水神社の祭りは昭和30年、昭和46年、平成2年と

まだ三回しか行われていないのです。

長い期間を開けて水神祭は行われていたとのことから

「滅多にやらない祭り」などと呼ばれていたのも事実なんですね。

(今年の波除稲荷の宮神輿と天井大獅子は出輿いたしません)

昨年は、場内市場が豊洲への移転が決定してしまいました。

築地場外を氏子町内に持つ波除稲荷神社は作年が三年に一度の大祭、

その大祭に、めったにやらない水神社の大神輿も一緒に渡御すると

いうのですから見逃しては祭り狂いの名が廃るとばかりに

駆けつけておりました。

築地場外はいつでも入ることができますが、場内市場は商売人で無ければ

中に入ることさえできませんでしょ、ただし、祭りの時だけは水神様に

お参りができるのです。

さっそく、魚河岸水神様に参拝、初めて見る遥拝所は思っていたより

小さなものでした、神田明神の水神社本殿に向けて手を合わせます。

(平成28年 波除稲荷 お歯黒獅子の宮入り)

さてと、神輿渡御の列はどの辺りかと、耳を澄ませて探し回ること三十分、

やっとたどり着きましたよ、

築四町会の桃太郎山車を先頭に、

波除稲荷の弁財天お歯黒獅子、

波除神社千貫宮神輿、

そしてシンガリを

水神社大神輿が続いているではないですか、

水神社の大神輿を見るのは平成2年いらい四半世紀ぶり、そして、

波除神社の宮神輿と一緒に見られるのはこれが最初で最後かもしれません。

なんだか祭りの歴史の一ページに立ち会っている気がしていましたね。

平成2年の水神社祭礼は確か9月の秋でした、

6月の波除稲荷大祭に水神社の神輿が出るのも異例なのかもしれません、

この水神社の神域は場内市場の中、一歩外へ出るとそこは波除稲荷神社の神域、

一緒に渡御すると言うのはよほどの話し合いがあったのでしょうね。

祭りは人間が行うもの、昔からの決まりごとをいかに旨く打ち合わせるか

という作業無しには祭りの合同というのは中々難しいことなんですね。

そうそう、この水神社の神輿はどこかで見たことがあると思っておりましたが、

神田祭りの祭、境内の水神社に祀られていたあのおお神輿ですよ、

すると神田からここ築地に運ばれてきたということなんですね。

築地の波除稲荷神社の祭礼はこのまま続くでしょが、

果たして水神社の祭礼はどうなるのでしょうか、

本殿は神田明神の中にあるので、神田祭りと一緒なのでしょうか、

歴史を遡れば、水神社の昔の山車は日吉神社の天下祭りに参加していた

経緯がありますでしょ、

さてどのようになるのか、またまた係わる人々の知恵が発揮される

ことを願いながらその神輿の後姿を見つめていた祭り旅の途中でございました。

と、思い出に浸る間もなく今年の獅子まつりが始まりました。

今年は宮神輿は神輿庫に鎮座されたまま、弁財天お歯黒獅子だけが

氏子町内を渡御されると権禰宜様から教えていただき、宮入の時刻に

やってまいりました波除稲荷神社でございます。

なにしろ氏子のみなさは築地市場で仕事をする方々ですから、

祭りといえども夜までなんてやってられないのです、

宮入りは午後三時三十分、

最後の休憩を終えたお歯黒獅子神輿が一本締めで見事に上がりました、

紅のお歯黒獅子が右に左にと大揺れしながら神社目指してやってまいります、

さあ、いよいよ宮入り、木頭の音頭に何度も行きつ戻りつを繰り返し

まっつぐに揃ったところで木が入って無事に宮入りとなりました。

最後は、宮元の氏子衆によって獅子神輿は境内へと運ばれ

還御式が厳かに催行され、今年の祭礼が無事収まりました。

場内市場は来年はもうここにはないのです、

さて次からの波除稲荷神社の祭りはどのようになるのか見つめていたいと

思います。

(2018年6月記す)