晴耕雨読の生活に憧れていても、現実は生きるために
右往左往しながら何時の間にか年を重ねておりましてね、
その憧れの晴耕雨読の生活を地でいった先人に徳富蘆花がいる、
蘆花の書き残した作品は100年前のこの国にあった美しい景観や
人の心が残されていたことを今に教えてくれているのです。
私の旅には必ず持っていくものがありましてね、
カメラと本、これだけあれば他に必要なものはありませんよ、
勿論、交通費と何がしの食事代くらいはないと、雲水さんの修行に
なってしまいます、それほど失礼なことはありませんので
自分の行動は自分で制御するくらいの心の持ち様くらいは
合わせて持ってまいりますがね。
雨読の生活を気取ってページをめくっていたのはその徳富蘆花の
随筆『自然と人生』、その中に 砂浜の潮干 という一文がありましてね、
金沢の亀泥牡丹を見にいった帰りに、野島に遊んだ・・・
野島って金沢八景の野島か、昔は牡丹を見に行くほどに有名だったんだ、
と潮干より野島の牡丹に釘付けになりましてね、
外は土砂降りの雨、でも、行きたい気持ちを抑えられないのが
フーテンのフーテンたる由縁でありまして、
気がつけば、その野島目指して飛び出したというわけですよ。
雨ならきっと空いているだろうと大抵は鎌倉へ向かうのが何時もの
コースですが、金沢八景は盲点でした、
あの随筆は百年前のことですから、今はどうなっているか、
前方が見えなくなるほどの雨も、金沢へ着くころは小止みに
なっておりましてね、天気予報はあくまで予報で、行ってみなければ
天気はわからないものですよ。
何度か訪ねている金沢八景は、東京湾に面した天然の良港として鎌倉
時代から物資の集積地として賑わっていたのでして、人と物の集まる
ところには必ず文化が育まれるのは必携のことでしてね。
寛文元年(1660年)頃、江戸幕府の医師として仕えていた永島祐伯
(号・泥亀)は晩年金沢・野島に移り住むと、幕府から新田開発の
許可をうけ、平潟に塩田と田圃を拓いたのが 泥亀新田の始りなのだとか
その永島家が九代二百年に渡って拓いた泥亀新田に植えたのが 牡丹だった
と、訪ねた伊藤博文別邸の係りの方から説明を受けましてね、
新たに建てかえられた別邸の庭には当時を思わせる 牡丹 が
雨に濡れて咲いておりました。
ところが、その牡丹よりもっと興味をひいたのは、
何故此処に 伊藤博文の別邸があるのか ということでした、
幸い、この雨の中訪ねてきた物好きは私だけ、お陰で係りの方から
詳しく説明を受けることができました。
伊藤博文と金沢の関係は
明治維新という大変革がこの国を近代国家へと歩みださせた明治14年、
板垣退助、大隈重信等の自由民権派の面々は、国会の開設と憲法の制定を
強く要求するのです、
明治天皇はその要求に勅諭を発令し、明治23年に国会を開設する と
国民に約束された。
当時内務卿であった伊藤博文は憲法の必要に迫られていたのです。
ヨーロッパの憲法調査から帰国した伊藤博文は明治18年に内閣制度を
発足させると、自ら内閣総理大臣に就任、直ちに憲法草案に取り掛かるのです、
起草メンバーは
伊藤博文の命により井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の三人が起草に着手した、
政府に反対する自由民権派からの妨害を避けるため、その場所は当時無人島
で東京から比較的近い金沢夏島が選ばれたのです、
その夏島に伊藤博文は陸軍大臣大山巌に掛け合って、別荘の建設許可を
取り付け明治20年6月に完成、しかし、全員が寝泊りするには狭く、
伊藤博文が夏島に、後の三人は野島の野島館に宿泊し、当時瀬戸にあった
料亭「東屋」で協議が続けられていたが、大事な書類の入った鞄が盗難に
あうなど、案外、おおらかな話し合いだったのかもしれない。
この夏島でまとめられた憲法草案は東京の伊藤公官邸で修正作業が続けられ、
草案は、直ちに設置された枢密院で天皇臨席の審議に掛けられた、
その枢密院初代議長にも伊藤博文が就任している。
今では考えられない私的行動でありますね。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。
日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となったのです。
その第1章第1條にはこう記されていた。
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と。
明治憲法制定後、明治31年に伊藤博文は夏島から野島に新たに
五棟の萱葺き屋根の別邸を建てるのです。
よほどこの金沢の地がこころに確かな絆を刻みつけたのでしょうね、
現在はこの野島別邸は市民に開放され、かつてこの日本間から穏やかな海を
眺めていた伊藤公は自分の最期がハルピンの駅頭で暗殺によって終わるとは
思いもしなかったでしょうね、
100年とは随分多難な月日だったと後になってわかるものなのかもしれませんですよ。
武州金沢 野島にて
コメントを残す