こうして 祭りを訪ね歩く旅を続けておりますと、

「祭りとは生き物だな」

とつくづく感じるようになりましてね、

勿論日本中に数えられないほどの祭りがあります、

とてもひとりの人生をすべてかけてもほんの一部を

感じるだけしかできないほどの沢山の祭りが、今日も日本の

どこかで行われているでしょう。

夏になると、東北の祭りが次々に始まります、

お盆を迎えれば、阿波踊りもよさこいも土地をあげて盛大に

始まります。

その祭りも二百年、参百年と続くうちには微妙に変化してくるのです。

なぜなら、祭りを行うのはその時代に生きている人間だからなんですね、

昔のように、春秋の収穫期を祝う祭りであれば、その時期に集まれるわけですが、

仕事が分散化され、都会で働く人々が増えてくると、祭りのために勤め先を

休むことなど出来なくなるわけで、そこで人間の都合によって、祭りの開催日も

その祭日に近い土日に変更されて行われるようになるのです。

いくら、伝統だとか、正調だとか言っても、肝心の人が集まらなければ

祭りは出来ないのですね、

日本人は、小回りの聞く考え方が出来る国民なんでしょうね、

こだわりよりやれる方法を考え出すことに抵抗を示さない国民かもしれませんよ、

そのことが、逆に経済活動の中に上手く取り入れてあっと云う間に、

世界に冠たる経済復興を遂げた原動力になっているやもしれません。

さてその祭りです、伝統という名がふさわしい祭りでも、やはり、

世代が変わるごとに形をすこしづつ変えてきているのは、

その日本人の考え方が、簡単にこだわりを捨てることができる

気質を表しているのかもしれません。

昔なら、その土地に行かなければ、その祭りは見ることが

できなかったのです、

しかし、時代は変化し続けているのですね、交通手段が進歩すれば、

誰でも大きな祭りを見に行くことができます、

そして、そこで見てきた祭りを、

「もしかしたら、自分達の町でも出来るかもしれない」

と考えた人がたとえ一人でもいて、自分の町で同じような祭りを

やり始めたら、

「これはいいじゃないか」

と賛同する人が次々に現れて、あっという間に広がっていくのですね。

その典型は、あの阿波踊りであり、よさいこいなんですね、

祭りのきっかけなんていうのは、どこでも最初はわずかな人の

独りよがりから始まるなんてことが多いのです、

いつ始まったか、どんなきっかけで始まったのか、なんて、

三百年も経てば誰もわからなくなるでしょう。

しかし、その始めた祭りが、十年、百年、いや三百年も続けることが

できたならもう押しも押されぬ伝統の祭りになってしまうのですよ。

まさに、祭りは生き物と云う意味はそこなんです。

徳島の阿波踊りはお盆とともに終わりを告げました、

しかし、東京や関東地域では、お盆と関係ないやり方で

阿波踊りが根付いているのです。

宗教色を見事に消した形だけの祭りが、現代の都会人には

必要だったのでしょうね、

もう、毎週のように土日には東京のどこかで踊り続けることでしょう。

華やかな衣装、あの心まで踊るお囃子、そして集まった人々の熱気が

祭りを盛り上げ続けるのですね。

やっぱり、祭りは生き物でしょ。

実は、東京は地方からやってきた人々の坩堝なんです、

東北出身者も、阿波出身者も、高知も、北陸も、

もう日本の縮図のような町が東京なんです。

何処の祭りだろうと、受け入れる下地が出来ていたんですね。