この国を旅していますと、いろいろな伝説に遭遇することが

ありましてね、

御伽噺から、摩訶不思議な伝説、歴史書には出てこない民話など

人から人へ伝えられて数百年、今も各地に残されてのです。

中には、菅原道真公、平将門のように怨霊と化した伝説から

もっとスケールの大きいダイダラ坊のたまげる様な話、

そんな伝説を端からうそと決め付けては、旅がつまらないもの

になってしまいますよ。

関東にも各地にそれはそれは楽しくも驚くような伝説が

いろいろ伝わっておりましてね。

中でも「八百比丘尼伝説」は、いつも驚かされるばかりなんです。

私が最初にこの「八百比丘尼伝説」聞いたのは

栃木の西片町真名子の山里でした、

どのような伝説かは、栃木市のHPに堂々と記載されておりますので

ここに掲載させていただきます。

 八百比丘尼伝説

 昔々、子供のいない長者夫婦がいました。二人は庚申様に子供が
 授かるように祈ったところ、女の子が生まれ八重姫と名付けました。
 姫が7歳になったある日、白髪の老人が訪ねてきて、長者を家に招き
 庚申様を一緒に信心したいと申し出ました。長者は老人の家で不老不死
 の薬だといって煮た貝をすすめられましたが、肉食を絶っていたので、
 食べたふりをしてたもとに入れました。家に帰ってきた長者に、八重姫
 がすがりつくと、たもとから貝の肉がこぼれ落ち、姫はそれを父がくれ
 たものと思い食べてしまいました。やがて八重姫は18歳になり、美し
 く成長した姫のうわさを聞いた帝は都に召し出そうとしましたが、それ
 を知った姫は家を出てしまいます。真名子の里を離れた姫は、山道で会
 った白髪の老人の家で暮らしていましたが、両親が恋しくなり家へ帰り
 たいと告げました。すると老人は、ここを出れば二度と戻れないこと、
 自分が庚申であることを告げ、屋敷とともに忽然と姿を消してしまいま
 した。真名子に帰り着いた姫は、家を出てから800年も月日が経って
 いることを知ります。途中、山のふもとの池で手を洗い姿を映してみま
 したが、18歳の娘のままなので信じられません。やがて姫は尼になり
 名を妙栄とあらためて巡礼の旅に出ました。そして長く生きすぎた妙栄は、
 ついに若狭の海に身を沈めて命を絶ちました。
 以後、若狭では八百姫大明神、真名子で八百比丘尼様として祀られ、今に
 伝えられています。
              (栃木市役所のHPより)

なにやら不老不死の物語や、浦島太郎の物語を彷彿とさせますでしょ、

似たような伝説は、実は若狭が発祥で、北陸から越後、関東各地に

沢山伝えられているのです。

群馬、埼玉、東京にもあるんですよ。

これは多分、この話を全国を行脚しながら伝えていった一段がいたと

いうことなのでしょうね。

歴史の中でも、特に権力を掌握した者は、とかく不老不死を願うらしく

そんな薬がないかと無我夢中で探させる話は枚挙に暇がありませんでしょ。

それじゃ、一般庶民はどうかといえば、やっぱり少しでも長生きしたい

というのが本音なんですね。

ほら、もう孫までいるご婦人が顔にパックしたり、皺を伸ばすことに

生きがいを感じるなんていうのも、もしかしたら不老不死の代用かも

しれませんよね。

でも、間違っても人魚の肉なんて探さないでくださいよ、

もしかして、18歳のまま800年も生きることになったら

どうします、生き物は命の終わりがあるから一日、一日を大切に

思えるのですよね。

さてと、長々と不老不死と八百比丘尼伝説をお伝えしたのには

理由がありましてね、

伝説だと思っていた八百比丘尼が開山したお寺さんがあると聞いたから

なのです。

 大化年間(西暦645~650年)に若狭国の八百比丘尼が一寸八分の

 紫金の観音像を当地に安置したのが開山と伝えられるその寺は

 『大悲山塩船観音寺』、

そうなんです、もう何度かお訪ねしたことのある青梅の花の寺なんです。

梅の花を訪ねた途中で塩船観音に参拝、

ツツジの花の咲く頃だと、人であふれかえっている塩船観音も

人の姿はありません、

恐る恐る階段を登り観音堂を参拝、

お尋ねすると、千三百五十年前に八百比丘尼によって開山されたと

伝わっておりますとのこと、

なんだか、伝説の中の比丘尼が姿を現したようで、

不思議な気分でございますよ。

伝説は伝説の中のこととしていたほうが夢を見られるのかも

しれませんですよ。

誰もいない山の小道で大きな平和観音像に手を合わせた

旅の途中でございます。

(青梅にて)