『花は一重なるもよし 八重桜は 奈良の都にのみ
 ありけるを このころぞ 世に多くなりはべるなる
 吉野の花 左近の桜 皆一重にてこそあれ 八重桜は
 異様のものなり いとこちたくねじけたり 植えずとも
 ありなん おそ桜 またすさまじ 虫のつきたるもむつかし』
      「徒然草」139段より

どうだろう この吉田兼好の八重桜嫌いは

まるで意地になって八重桜を貶す様 それこそいとおかしである。

あまりに貶されると、へそ曲がりの桜狂いは、

「それじゃ、その八重桜のいいところを

見つけてやろうじゃないか」

と意気揚々と爛漫の里桜の元へ。

そういわれて見れば、中年オバサンの厚化粧に見えなくもないか

口に出してしまった、これはまずい、

世の戦闘的な女人から、毒矢が飛んできそう、

いえいえ、可憐とまではいきませんが、よくよく近寄ってみれば

愛嬌もあるし、陽気な風情はなにやら関西のオバサン風

やっぱり、例えに出るのは オバサンの姿、

兼行先生のぼやきも少しはわかる気がしないでも・・・

東京に訪れた久し振りの晴天、

初夏を思わせる陽気ともなれば、

あの少し寂しげな一重のヤマザクラなどは役不足、

ぼってりした厚化粧の陽気な花がこころを

上向きにしてくれるやもしれないと

目を細めて見上げれば

「うーん 暑苦しや!」

桜に罪は無けれども、八重の桜は情熱の花

あの花がこちらを向いたら、気弱なおっさんはそっと忍び足で

逃げるがいいか、

いやいや、これは先日信州で可憐な桜を観て、そのまま

真夜中に戻ってきてしまった桜の余韻がそう云わせるので

ありますよ。

今が盛りの里桜、こんなに観にくる人が少ないのは

咲いていることを知らないのではなく、八重の花を桜の範疇から

除いてしまったからでしょうか。

それだったら、もっとじっくり付き合ってやらねば と

もう一度振り向いて見上げた八重桜 いと愛し。