今年の師走は、冷たい風と鮮やかな紅葉を同時に連れて

やってきたらしい。

今は、東京が一番美しく彩られている、こんな見事な紅葉を

見逃すわけにはいかないと、近いことの利点をいかして

東京を彷徨っておりますよ。

東京者がわざわざ日光や裏磐梯や京都まで紅葉を求めて旅をする

ことはあっても、東京の紅葉を求めて全国からやってくる客など

滅多にないでしょ、

東京だってビルと騒音ばかりの街でないことを知っている者は

密かに麗しい紅葉を楽しむだけで気分が高揚するのですよ。

高く長い塀越に鮮やかな紅葉が目に入ってくる、

「よし、今日は此処にしよう」

自分の目で確かめることほど失敗はないわけで、

閉園前のほんのひとときをその紅葉の庭園に滑り込ませてみるのです。

かつての大名屋敷である、

世が世なら庶民の眼に触れることの無い庭園に佇めば、

かつての日本人の美に対する意識の高さが否応無しに目の前に

迫ってくるでしょう、

日本人が考える庭園とは、実用性を全く考えないだけに、

無駄が美に変わることを教えているのかもしれない。

日本人の底流にあるのは 水、

そのことを意識する表現こそが日本庭園なのかもしれない、

その庭園にあるのは、池を中心にした築山に石と草木を配し、

回遊できる小道が作られている、

雄大な自然を、我が庭に作ることこそ大名の力の象徴と

思えないことはない。

人間の力で作り上げた自然をいかに本物に見せるか、

多分、庭師たちは形だけでなく日本人の魂を感じさせる心までも

この庭という空間に込めたのだろう。

この庭を依頼した大名も、その後を受け継いだ実業家も

そして庭師たちも自分たちの作り上げた庭園の完成をみることなく

この世から去っていく、それは人間の寿命をはるかに超えた

樹木の成長をその庭に織り込んで作庭したのであるから

完成を見ることはできないわけで、三百年後の私たちが

その完成を見つめるという不思議な感慨にふけることが

できるのでありますよ。

勿論、この庭園には春夏秋冬が描かれるのです、

春は花の庭に、夏は青葉の輝きを、そして見事に色付いた錦の紅葉は

古人たちの願いだったかもしれない、

その秀麗な美もやがてはらはらと散ることで終焉を迎える、

全ての葉を落とした真冬の庭にも明日への希望がある

静かに見守るその庭園に日本人のこころのあり様を見つめていた

東京散歩の途中でございます。