旅するきっかけというのは人それぞれ異なるでしょう、

歴史の舞台になった土地を訪ねる、

小説の中に描かれた土地へ、また小説家その人への興味から

縁のある土地を訪ねることもあるでしょう、

TVやインターネットの情報から興味を持つ方は多いかも

しれません。

要するに旅をするきっかけというのは旅人の数だけあるわけで

コレダ!という決まりなどないのですよ。

だから旅をすると心の自由が得られるのかもしれませんね。

泉鏡花の作品に逗子がたびたび登場する。

1902年(明治35年)鏡花は胃腸病のため逗子に静養,

そのとき身の回りの世話してくれた伊藤すず(神楽坂に桃太郎という名で

出ていた芸妓)との出会いは二人を結びつけるきっかけとなった。

翌1903年(明治36年)5月、二人は牛込神楽坂に同棲をはじめる

しかし師紅葉は二人の関係を絶対にゆるさず、

「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで鏡花に迫った。

後に『婦系図』の湯島天神の場のセリフはこの時のいきさつが

下地になったのだろう。

紅葉の没後、鏡花はすずと結婚し、終生変わらぬ愛を貫いたという。

以前金沢の泉鏡花記念館を訪れた折、一冊の鏡花作品を手に入れた、

『草迷宮』という、鏡花が逗子に居た頃に発想したのだろうか、

逗子から葉山辺りが舞台になった作品であった。

まさか金沢と私の最愛の地逗子が結びつくとは思いもしなかった。

「久しぶりに逗子に行って見ませんか」

鬼姫様をお誘いした。

彼女は学生時代、逗子で夏を過ごすのが日課になっていたのです。

「なんだか懐かしいですね」

初めて出会ったのも逗子であったし、それからの青春時代も、

その後も、

いつも逗子は私等のなかで永遠のメモリアルでもあるのです。

「向うの小沢に蛇(じゃ)が立って、
 八幡(はちまん)長者の、おと娘、
 よくも立ったり、巧んだり。
 手には二本の珠(たま)を持ち、
 足には黄金(こがね)の靴を穿(は)き、
 ああよべ、こうよべと云いながら、
 山くれ野くれ行ったれば…………

三浦の大崩壊を、魔所だと云う。
葉山一帯の海岸を屏風で劃った、桜山の裾が、見も馴れぬ獣のごとく、
洋(わだつみ)へ躍込んだ、一方は長者園の浜で、逗子から森戸、
葉山をかけて、夏向き海水浴の時分、人死のあるのは、この辺では
ここが多い。」  泉鏡花著 『草迷宮』より

「三浦の大崩壊ってご存知ですか」

「私が学生の頃、夏をすごしていた場所ですわ」

「ああ、それじゃ長者ケ崎のことですか」

「あの頃、わたしもこの本に出会っていたら、もっと文学的な

青年になっていたかもしれませんね」

思わぬ地名が記憶を蘇らせてくれた。

あの頃は外から眺めるだけであった葉山御用邸の一部がしおさい公園に

なったことは知っていたが、中に入るのは初めてであった。

「昭和天皇皇位継承の地」

大正天皇は、葉山御用邸附属邸で御病気のご療養なされておりましたが
大正15年12月25日、午前1時25分、遂に崩御された。
皇太子殿下(後の昭和天皇)は直ちに葉山御用邸附属邸において
天皇の位におつきになられた。
新天皇陛下は、まず登極令(旧皇室令)第1条によって践祚の式を行なうため、
剣璽渡御の儀を同日午前3時15分より葉山御用邸附属邸において執り行われた。

「昭和は葉山の地から始まっていたのですね」

「その昭和もあっというまに64年が過ぎてしまったのです、

 そういえば 平成になった日も 二人で越前海岸におりましたね」

何だか思い出ばかりが増えていき、そのうち思い出に押しつぶされそうな

気がしてきましたよ。

目の前の一色海岸で青春を謳歌していたあの頃に、こんな長閑な老後があるなんて

思いもしなかったですね。

久しぶりに馴染みの店で食事、

この店も40年になるそうで、そういえば今はメニューから消えてしまった

ブイヤベースの味を思い出しながら過ぎていく刻を想うというのも旅の仕方に

加えてもいいかもしれませんね。

葉山にて