若山牧水は大正11年(1922年)10月14日沼津の自宅を立ち、

長野県・群馬県・栃木県を巡って、11月5日に帰着する

24日間の長旅を『みなかみ紀行』に綴った。

詩人であるとともに名うての旅人であった牧水に惹かれ続ける身には

この草津を発って花敷温泉で一夜を過ごし暮坂峠を越えて沢渡温泉までの

コースは何度訪ねてもこころが震えるほど素晴らしい山道なのです。

牧水は弟子の門林兵治と二人旅でこの暮坂峠を越えている。

以前、彼らと同じ初冬の季節を選んで一人で峠を越えたことがあったが、

一人旅の侘しさばかりが残ったものになったのは思い入れが強すぎたから

だと、今回は季節を変え、コースも逆の沢渡温泉から暮坂峠を目指すことに

いたしました。

相変わらずの一人旅でございます。

一夜の宿は沢渡温泉『まるほん旅館』

ここの温泉と総檜の浴室はもう天下一品、

ここでちょっと昔話を一席・・・

寝静まった温泉宿の宵は一人旅には時間が余り過ぎてもてあますほど

なのでありますよ。

タオルを肩にのんびり湯につかるかと誰もいないはずの湯船に飛びこむと

薄明かりの中に人の影が・・・

「あっ!」

といったのはアタシの方で、其処には美しいご婦人が首まで

浸かっているのですよ。

知ってしまうとこちらも動くに動けず

「失礼しました」

と背中を向ける。

「あの、そのまま向こうを向いててくださいね」

そういうと微かな湯音を残してその婦人は濡れたままの身体に浴衣を

羽織るとまるで風のように湯殿を去っていったのです。

もしかしたら狐の仕業かかもしれないと思わせるほどの一瞬のことでしたが、

あの時以来、温泉に特別な意味を持つようになったのですがね。

(霧にむせぶ暮坂峠)

草津の仕上げ湯として昔から栄えた沢渡温泉を後に、山道を登っていく、

山は緑に映え秋の侘しさなど微塵も感じられない、

谷のせせらぎと時告鳥の鳴き声が旅情をさそう、

どんよりとした雲が低く垂れ込む山道を降り出した雨が黒いシミを

残し始めたかと思う間もなく本降りになってしまった。

半袖では少し肌寒い1066mの暮坂峠は霧に包まれていた。

歩くとその霧が身体に纏いつく、

昔はこの峠にバスが通っていたがどうやら廃線になったらしい、

だんだん昔に戻っていくのだろう、牧水がやってきたあの頃と

変わらなくなっていくのだろうか。

『枯野の旅』   若山牧水

乾きたる

落葉のなかに栗の實を

濕りたる

朽葉(くちば)がしたに橡(とち)の實を

とりどりに

拾ふともなく拾ひもちて

今日の山路を越えて來ぬ

長かりしけふの山路

樂しかりしけふの山路

殘りたる紅葉は照りて

餌に餓うる鷹もぞ啼きし

上野(かみつけ)の草津の湯より

澤渡(さわたり)の湯に越ゆる路

名も寂し暮坂峠

そぼ降る雨にぼんやりと辺りを見回しても訪ねてくる人影もない、

暗くなる前に峠を下りなくては と何かに背中を押されたように

六合(くに)村を目指して下り始める。

今日の雨にふさわしい名も麗しい『小雨集落』を眼下に見る頃には

夕闇が霧にまみれて迫り始めておりましてね。

(小雨集落)

今宵は花敷温泉に宿をとりますか、

白砂川の辺に湧く温泉はきっと緑の山を映して迎えてくれるに

違いありませんよ。

「今夜も女狐に騙されてみたいものだ」

とひとりニヤつく小雨の山旅でございます。

一人旅っていいこともあるんですよ・・・

名も寂し暮坂峠を越えて