つい二年前までは秩父には数えきれないほど通っていながら、

寄居町はいつも通過するばかりで町を訪ねたことがありませんでした、

改めて寄居町の歴史を調べてみると、中世の鉢形城の城下町として

開けたとともに、古く秩父往還の街道筋の宿場町として賑わった

という歴史のある町なのですね。

平成になって各地では合併の嵐が吹き荒れ、昔から残る町の名は

意味の無い名前に変えられ、旅の中で訪ねた町が次々に消えていく中、

寄居町は何処とも合併せず単独町として今に残り続けているのです。

そんな頑なな人々が昔からの祭りを守り通していると聞いて、

どんな祭りをやるのか確かめたくなるではありませんか。

日本人の文化というものは親から子へ、祖父母から孫へ、さらに

郷土の長(おさ)から若い者へと古来から持ち伝えてきた物心両面の

生活様式を受け継ぎ、覚えこむことで、学校の教育とは別の知識や古人

からの夢までも受け継いでいくのです、その一番の方法が祭りなんです、

祭りを通して受け継いでいる生活様式がある時はそれぞれの人々の身を守る

ことにもなっているのですね。

(綱の先頭を曳くのは町の長老です)

(山車は大人も子供もお母さんもみんなで曳きます)

そういう文化を、この町では多くの人々が祭りに参加することで

自然に身につけているのですね。

御旅所を出輿された鳳輦を各町内の山車が後先を守りながら

アタシが散歩するようなゆっくりとした歩調で大通りから横町の

路地の中まで巡行していくのです。

神の霊力をことごとく氏子に伝える儀式でもあるのですね。

(かつて茅町の山車に乗っていた野猿様)

途中数箇所の御借屋に休まれる度に、宮司様の祝詞が奏上される、

そして再び歩き出すと、年番町の山車を先頭に、各町の山車・笠鉾も

全てが追従するのです。

東京の神輿渡御では宮入りは神輿だけで、氏子達はほとんどついて

いくことはありませんが、寄居は頑なに同じ様式を守り通して

いくのです。

アタシときたら昨年は途中で体力が続かず断念した駅前から、

今年こそはさらにその後の巡行についてまいりますよ。

秋の宵は早々とやってまいります、

暮れていく空に、灯りの点った高張り提灯や山車の灯りのなんという

美しさでしょうか。

還御祭が始まって丁度2時間半、

とある弁天堂の前で大休止、ここでどうやら食事のようです、

アタシも開いていた食堂で腹ごしらえを済ませ

いよいよ宗像神社への最後の道のりです。

茅町の居囃子が出迎えてくれる夜道を一行がお囃子を響かせながら

神社へと向かいます。

歩いて、歩いて3時間半、脚が棒のようになった頃神社へ、

暗闇の中で雪洞の灯りがほっとさせてくれますね。

神社へ無事還御された神の御霊は暗闇の中で御霊返しの儀が行われた

ようです。

後ろを振り返ると、なんと全ての山車・傘鉾が鳥居の外に

集まっているのです。

老人から若衆そして小童まで、こんなにも神を祀ることに真摯な人々を

滅多に見る事はありません、その人々を目の当たりにして胸が熱くなりました。

(今年から始まった新たな年番札)

無事御霊が神社に還御されたようです。

宮司様から感謝のご挨拶、氏子総代、幹事の挨拶も心のこもった

ものでした。

最後に今年から神社の「年番札」が作られたと披露され盛大な拍手のなかで

年番交代式が執り行われたのです。

今年の年番 本町 から来年の年番 茅町 へ、この町は七町会あるので

あと五年は通い続けたくなりました。

全ての神事が終わり、山車は再び各町内へと戻っていきます。

真っ暗な夜道に山車の灯りが揺れ、お囃子の笛が夜空に響いて

います。

昔、福岡の美術館で観た高島野十郎の絵は蝋燭の炎の向こうに

闇を描き出しておりましたが、今、闇の中に浮かび上がった山車の

明かりを見つめながら、この町には確かな闇があることを感じて

おりました。

闇こそ人間の想像力を高めるものはないのです。

アタシも最後まで4時間歩き通せた満足感に浸りながら

駅への道を戻ります。

さて、秩父鉄道の列車を待ちながら駅のベンチに座っていると、

あの聞きなれたお囃子が遠くから聞こえていた祭り旅の途中です。

2015年 武州寄居町にて