まるで北陸の空を思わせる雪雲が谷奥を覆っている、

暖房の効いた電車の中で読みふけっていた本を閉じたのは

「次は北鎌倉、北鎌倉」

の車掌の鼻に抜けるアナウンスだった。

行き先定めぬ何時もの旅である、冷たい雨の海を眺められる何時もの店で

香り高い珈琲を飲みながら本の続きを読むとするか、

それが急に席を立ったのはあの場所を思い出したからなんです。

真冬の冷たい風の中を歩き出したのは、もしかしたら間に合うかもしれない

と思ったんですよ、

私が旅に持っていかないもの、それは時計と携帯電話

時間は晴れていれば太陽の位置でそう狂わないのですが

このどんよりした雲の下では大幅に狂ってしまったようです。

門前に到着した時を待っていたように扉が閉まり始めた、

あの寺守の老人と目が合った

「閉門の時間になりましたので」

申し訳なさそうに目礼をした。

「もう五時ですか」

「紫陽花の時期は五時ですが、今は四時が閉門でございます」

「そうでしたね、それでは出直してまいります」

此処「明月院」は何度もお訪ねしているのに、

こういうこともありますよ、

さてと、雨の中に霙が混じり始めてきましたよ

どこか雨宿りできそうな処は・・・

確かこの先に、老人に人気の店があったはず、

軒端の梅の香りを楽しみながらやってくると暖かそうな灯り

が点いている、

扉を開けると、

「申し訳ない、もう終わりなんです」

入り口に11:00-16:00の小さな看板がある、

「それは残念でした」

と戻り始めると、冷たい雨の中を帰っていく姿に同情してくれたのか

「この先に新しく始めた珈琲屋さんがありますよ」

と教えてくれましてね。

「此処かな」

小さな看板が遠慮がちに置かれた入り口から

階段が続いている、

あの看板が無ければそこが店だとは気付かないで

通り過ぎてしまうほど目立たないのです。

今日は二度も断られたので、そーっと扉を開くと

「まだよろしいですか」

と声を掛ける、

「どうぞ!」と若い声が返ってきた。

どうやら客は誰もいない、

店主はあのイチロウー選手のような爽やかな青年でしてね、

店内はシンプルそのものの中に彼の拘りがさりげなく散りばめられている。

メニューはドリンクとケーキだけ

中煎りのブレンド珈琲とパウンドケーキをお願いする。

よほど珈琲を愛しているのだろう、それは丁寧に丁寧に

ペーパードリップで抽出する彼の仕草の中に十分に感じられるのです。

こんなに静謐な時間を作り出す彼の生き方に妙に感心してしまった。

問わず語りに話す彼の口ぶりは、自分の仕事に誇りを持つ者の

謙虚さがあった。

多分、鎌倉の中で一番観光客の通らないこの場所で店を開いた彼の

信念に心動かされる何かがあるのでしょう。

焙煎から全て自分のやり方で通しているその味は

珈琲好きには気になる味でしたね。

きっと、いつ訪ねても、彼はあの変わらぬ仕草と笑顔で

香り高い珈琲をそっと出してくれるでしょう。

またひとつ、珈琲好きには避けて通れない店を

見つけられたようです。

すっかり身体も温まり、再訪を約して通りに出ると

外は相変わらずの冷たい氷雨、

お稽古帰りの女性の一段の明るい笑い声が

春がもうそこまで来ていることを思わせた旅の途中です。

北鎌倉 明月谷にて