「仕事を持っていたらそんなに旅なんかできませんよ」

って大抵の人はそう応えるのです。

仕事を終えると、その忙しい方々も真っ直ぐ奥方の待つ

お宅へお帰りになりませんでしょ、

「いっぱいやっていくか」

特に呑兵衛のお父さんなどつい縄暖簾掻き分け、一杯が二杯

さらに勢いがついてベロベロに酔っ払って、帰宅は御前様なんて

いう楽しくモッタイナイ時間をお過ごしのことと思います。

下戸のおじさんも、真っ直ぐお帰りにならないのは同じでございますよ、

近頃は陽の落ちるのも遅くなって、仕事を終えても世間はまだカンカン照りの

昼間でございますよ。

「そうだ、遠回りして帰ろう」

何しろ携帯を持たないので探されることはありませんでしょ、

折角作った自分の時間は大事に使わないとバチがあたりますよ、

あの、呑兵衛のお父さんをダメだと言ってるんじゃありませんよ、

それはそれで立派な自分の時間の過ごし方ですから何も意見など

申しませんです、これはあくまでも下戸のおじさんの仕事の後の

過ごし方でございますのであしからず。

で、やって来たのは旧江戸川の辺り、何しろ江戸時代から人の

行き来が頻繁に行われていた行徳のある昔からの猟師町、

川があるから橋を架けるというのはつい百年ちょっと前の

最近のことでして、ここ今井は、勿論橋などなく、今井の渡し

という公には認められていない渡し舟があったのですよ。

江戸からやってくる人はお咎めなしに行徳側に渡れたのですが、

行徳から江戸に向かうことはご法度でいくら舟があっても

渡れないというのが今から二百年前の今井の渡し場だったのです。

さてここからが本日のお話で、

『武士と腰元が駆け落ちした話。
その当時今井の渡しは、「今後ここを渡る時は通行手形を所持すること。
これを持たぬものは、ここを渡ることはできない。
これを破った者は百叩きか首打ちとする」というお触れがでていた。
そこへ何とかここまで逃げてきた武士の久三郎と腰元のイネ。
地元の女が二人の話を聞き「ここで待っていてください」
と欠真間村と鎌田村に住む二人の船頭を連れてきてくれた。
船頭は「任せてください」と、いざ船を出そうとしたところ捕まってしまった。
正保元年(1644)5人は殺され、女と船頭は家族の手で手厚く葬られたが二人は
渡し場の南にある刑場のすみに埋められたままだった。
それをあわれに思った延命寺和尚が埋められた場所に石地蔵を立て、
ねね塚と呼ばれ、首切り地蔵と呼ぶようになった。これは首と胴を別々に作ったため、
何度首をのせても落ちることからつけられた。
「市川のむかし話」(市川民話の会)より』

凄いですね、惨いですね、舟で川を向こう岸まで送っただけで磔ですよ、

いくら治安維持のためとはいえ、無茶苦茶な話じゃないですか、

さしずめ現代なら、タクシーの運転者がお客からお金をいただいて、

川にかかっている橋を渡っていったら二人とも掴まって磔にされちまったら

どうしますか、

後で、お地蔵様を立てていただいても浮かばれませんですよ。

こういう話をお聞きしてこの江戸川の辺りに佇むと、

この国の帰し方を考えずにはいられませんですよ。

それは遠い昔のことと簡単に記憶の外へ忘れられてしまうには

あまりにも哀しすぎますよ。

こういう哀しい経験を何度も重ねながら、少しずつ世の中を

変えてきたのがこの国の歴史と云うわけで、古人も現代人も、

長いものには巻かれてばかりいては世の中は変わらないのですよ、

昔だって、為政者の暴政には命をかけて一揆を起こしては

世の中を変えてきたのもこの国の生き方、それは自分たちの

生きる時代のためではなく次に続く世代への贈り物であった

のです。

さて、現代の山積する事案はどうしますか、

じっと見ているだけで解決しますか・・・・

寄り道で思わず口ずさんでしまった

「これでいいのか ニッポン」

江戸川の辺りにて