まるで春になってしまったかのような陽気に誘われて

久しぶりに古都を訪ねてみました。

寒い寒いと思っておりましたが、梅の花は例年より

少し早く咲き始めたらしく、風にその香りが含まれて

いるのを感じながら滑川沿いを歩く。

正治元年(1199)正月、源頼朝が急死、

嫡男の源頼家が鎌倉幕府第二代将軍となった。

頼家、18才であった。

権力の歴史はいつも繰り返される、

藤原氏がそうであったように、

権力者の嫡男への係わり合いは熾烈を極めるのは

権力闘争の常套手段である。

将軍は幕府の象徴にすぎないとしても、

そこに極端な動きが起これば、事態は一触即発の様相を

帯びてくる。

頼朝亡き後、幕政を担う北条時政・政子親子と比企一族の間に

ついに争いの火蓋が切られてしまった。

源頼家と比企能員の娘の若狭局の間に子が生まれる(一幡)と、

両者の軋轢はもはや誰も止めることができなくなっていく。

北条時政は比企能員を巧みに自邸に招きいれ、殺害するとともに、

時を移さず北条一族と畠山、三浦、和田等の御家人を動員して

比企一族が一幡を擁して立て篭もる比企谷の比企邸を攻撃。

比企一族は防戦したがついに館に火を放って全滅した。

わずか6才の一幡と母・若狭局とともに炎の中に消えていった。

歴史はいつも勝者の歴史だけが残っていく運命にある、

敗者は反逆者として闇に葬られる、

たった一日で滅亡した比企一族の屋敷跡に佇んでいる。

長興山妙本寺、今は日蓮縁の寺となっているが、この地が

かつての比企一族の館跡である。

若狭局を祀る蛇苦止堂は不気味な程に静まり返っていた、

ヒイラギに囲まれた一幡の墓、

今も花が絶える事の無い比企一族の供養墓、

源頼家には5人の子があった、

長男・一幡は比企一族と母・若狭局とともに討死。

次男・公暁は実朝を殺害後、北条氏により殺害。

三男・実学は和田合戦の時、討死。

女子の竹御所は後に九条家出身の鎌倉幕府第四代将軍・藤原頼経と

結婚したが難産の為、32才で死去。

その竹御所の墓も妙本寺の墓地にひっそりと置かれている。

滅びたのは比企一族だけではない、

あれほど権力を掌握した源頼朝の家系も僅か三代、実朝で

終わりを告げてしまうのも歴史の冷酷さであるのかもしれない。

いつ訪ねても、妙本寺境内は静まり返っている、

滅びていった者達の怨念がそうさせているのだろうか、

それとも八百年の刻の重なりなど滅びた者達の怨念の前では

何の抑止にもなっていないのだろうか。

しかし、八百年後の今を生きる私達は、権力闘争の愚かさを

知っている、

あれほど力を持った北条一族も長い刻と移ろいの後では

その名前さえ覚えているものはいない・・・

妙本寺を後に安養院を訪ねた、

水仙の香りが優しく迎えてくれた。

その時代、勝者と敗者と鮮明に分けられたとしても

八百年後はね、どちらも石の墓石がひとつ残るだけの

たいした違いも無いのですな。

小さな供養塔だけが北条政子の

生きた証のようにぽつんと置かれていた。

それが事実かどうかを確かめる手段はないが、

たとえ判ったとしても大した価値はないだろう、

これでいいんだとそっと手を合わせる。

過ぎてしまえばすべてが 無 なのだから・・・

鎌倉比企谷にて