武田勝頼夫人が天正十年二月に、武田氏の武運等を祈願して

奉納した切なる思いを書き綴った手紙が今も残されている

という武田八幡宮を初めて訪ねたのは十年前のことでした、

それは武田一族の最後を忍んでみたいという歴史好きの想い

からでした。

勝頼夫人がその手紙を奉納してから14日後、武田勝頼は新府城に

火をかけ落ち延びていく

途中、田野にて夫人、子信勝とともに自刃して果ててしまったのです。

武田勝頼夫人北条氏祈願文

うやまつて申 きくわんの事
南無きキやうちやうらい、八まん大ほさつ、此国のほん志ゆとして、
竹たの大郎とかうせしより此かた、代々まほり給ふ、ここにふりよのけき
新出きたつて、国かをなやます、よつてかつ頼うんを天とうにまかせ、
命をかろんして、てきちんにむかふ、志かりといへとも志そつりをさえるあいた、
そのこころまちまちたり、なんそきそよし政そくはくの神りよをむなしくし、
あわれ身のふほをすててきへいをおこす、これミつからははをかいする也、
なかんつくかつ頼るいたい十おんのともから、けき新と心をひとつにして、
たちまちにくつかへさんとする、はんミんのなうらん佛はうのさまたけならすや、
そもそもかつよりいかてかあく新なからんや、思ひのほにを天にあかり、
志んいなをふかからん、我もここにしてあひともにかなしむ。涙又らんかんたり、
志んりょ天めいまことあらは、五きやく十きやくたるたくひ、志よ天かりそめにも
かこあらし。此時にいたつて神かんわたくしなく、かつかうきもにめいす、
かなしきかな志ん里よまことあらは、うんめい此ときにいたるとも、ねかわくは
れいしんちからあわせて、かつ事をかつ頼一しんにつけしめたまい、あたをよもに
志りそけん、ひやうらんかへむてめいをひらき、志ゆめう志やうおん志そんはんしやう
の事、ミきの大くわん、ちやうしゆならは、かつ頼我ともに、志やたんミかきたて、
くわいろうこん里うの事、うやまつて申
     天正十祢ん二月十九日       ミなもとのかつ頼うち

二の鳥居をくぐると道は真っ直ぐに本殿のある高みへと続いている、

薄暗いその社は神木である杉の木立に囲まれ、昼尚暗い森閑とした雰囲気が

漂っている。

まもなく夕暮れがやってくるだろう暗がりに先ほどから降りだした雨が

尚一層寂しさを募らせていた。

「此処にも櫻があったのか」

ひとり呟いて本殿への最後の急階段を登りきり、息を整えるために立ち止まり

眼を凝らすと、誰もいないと思っていたその本殿の前で手を合わせている

男の姿があった。

随分長い間祈っていたその男を待つことになったのは、その男がかもし出す

人を寄せ付けない気配に敏感に反応したからかもしれない。

祈りが終わって振り向いた男と眼が合った、

「あっ、お待ちになっていたのですか 気づきませんでした」

思わぬ丁寧な話し方にほっとして

「あの、櫻を探しているのですが、ご存知ですか」

「ああ、王仁塚の櫻ですね」

どうやらここから歩いてもそんなにかからない、よければ

案内するという親切につつしんでお願いしておりました。

「実は此処は私のふるさとなんです、三十年ぶりに戻ったんです」

肩を並べて坂道を下りながらその男はそう話し始めたのです。

「地元の方だったんですね」

「地元といえばそうかもしれませんが、もう父も母も居なくなりましてね

 兄夫婦が家を守ってくれています」

「三十年ぶりとおっしゃっておりましたが、

  どこか外国にでも行ってらしたんですか」

その男は躊躇しておりましたが、まるで自分に言い聞かせるように

話し始めたのです。

「あれは二十歳になる少し前だったのです、次男坊のワタシには此処に居ても

 先が見えなくなりましてね、都会へ行きたいと親に言ったんです、

 農家の次男坊は労働力としては重宝できる存在だったのです、勿論親は猛反対

 ですわ、きっと若かったのでしょうね、親父と口論になりましてね、

 出て行くなら二度とこの敷居はまたがせないという親父の言葉に、

 戻ってなんかこないと啖呵きって飛び出したんです 」

「それじゃその時から三十年、一度も戻らなかったのですか」

「今、思うとなんでそんなに突っ張っていたのか・・・

 昨年その親父が倒れましてね、兄から連絡が来たのにその時も戻らなかったんです

 都会で一人で生きるのは何処かで意地を張ってないと崩れそうでした、

 その後、親父が亡くなったと連絡が来て・・・とうとう葬式にも行かなかったんです」

「ここから見えるでしょ、あの櫻ですよ、

 お袋が父に内緒で渡してくれたお金を握って ここから振り向いたら、

 お袋が何度も何度も手を振っていたんです」

「母上はお元気なんですか」

「亡くなりました、その葬儀に戻ってきたんです、

 何であんなに 意地を張り続けていたのか

 悔やまれて悔やまれてね」

「今もあの櫻の下で手を振っている姿が何度も浮かんでくるんです」

その男はおいおいと泣き始めてしまった。

「此処は紛れも無くアナタのふるさとですよ。

 あの櫻が全てを見ていてくれていたのですから」

しばらく沈黙の刻が流れた、

「すいません、見ず知らずの人にこんな話をしてしまって」

「親父さんもきっと許していますよ、母上の姿だってあの櫻が咲くたびに

 浮かんでくるでしょ、ふるさとっていいですね」

「あの櫻が咲くたびにきっと泣いてしまうでしょうね」

「いい櫻を見せていただきました、お互いに精一杯生きること以外に

 やれることはないのですから・・・」

私は礼を言うとそっとその場を離れた、その男はじっとあの櫻を眺め続けていた。

あれは紛れもなく在所(ふるさと)の櫻です。