ヴェンセスラウ・デ・モラエス(1854-1929)

と云うポルトガル人を知っている日本人は少ないでしょう、

明治32年(1899年)ポルトガル領事館が神戸に開設されると、

彼は副領事として赴任、さらに総領事となって、祖国へ日本の

政治外交から文芸までを紹介しつづけたのですが、同じ時代に

日本にやってきた

パトリック・ラフカディオ・ハーン(1850-1904)

ほど知られることはなかったのです。

モラエスの人生を180度変えてしまったのは徳島生まれの

芸者おヨネ(福本ヨネ)との出会いだったのです。

モラエスはおヨネと共に暮らすのですが、そのヨネが若くして

亡くなると神戸の領事館の職を辞し、彼女のふるさとである

徳島に移住し、ヨネの姪である斎藤コハルと暮らすのです、

しかしそのコハルにも先立たれ、徳島の地でたったひとりで

生き続けるのです。

当時の徳島は人口7万人、その中で外国人はほんの3,4人であり、

彼の行動は当然のように奇異の目で見られたことでしょう。

彼が孤独な生活を過ごした大正時代の徳島は、

夏のお盆の季節を迎えると、あの盆踊り(阿波踊り)

が三味線、太鼓、笛の音に包まれて盛大に行われていたのです。

モラエスはその盆踊りを見るたびに、おヨネとコハルを思い描いて

いたのでしょう、

後に彼は

 『おヨネとコハル』、『日本精神』、

『ポルトガルの友へ』、『徳島日記』

などの著書を残すのですが、すべてポルトガル語で記されていたため、

日本で知られることは無かったのです。

昭和4年(1929年)、そのモラエスは徳島の地で孤独な人生の幕を

閉じるのです、

モラエス75歳の数奇な人生です。

彼の死後、岡村 多希子氏の翻訳により

『徳島の盆踊り』-モラエスの日本随想記 1989年(講談社学術文庫)

として発行された。

モラエスは夏の盆が来るたびに、日本人が死者を迎える仕来りに

どんな気持ちを重ねていたのでしょうか。

日本人になりきってしまったモラエス、

あの阿波踊りの鳴り物が響き渡る時、モラエスも手足を動かしながら

踊っていたのでしょうか。

南越谷阿波踊りにもその徳島から

数々の阿波踊り連がやってきた。

徳島の風、徳島の香り、徳島の盆踊りを舞っていった。

底抜けに明るい曲調の阿波踊り、

嗚呼、モラリスよ、きっと貴方は涙を流しながら聞いて

いたのでしょうね、

騒囃子(ぞめきばやし)も聞く人の人生を重ねていくと

それは楽しいばかりではない気がいたしますね。

長い歴史の阿波踊りには、

係った人々の数だけ物語が生まれては

消えていったのでしょう。

 「笛や太鼓の よしこのばやし

  踊りつきせぬ 阿波の夜

  ハアラ エライヤッチャ エライヤッチャ

  ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ

  踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら

  踊らにゃ損々
 
  ハアラ エライヤッチャ エライヤッチャ

  ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ 」

徳島の騒囃子をしみじみと聞いていた祭り旅の途中の

ことでございます。

(今でも徳島「無双連」の踊りに魅せられています)