春ごとに花のさかりはありなめど

   あひ見むことはいのちなりけり

        読人知らず 古今和歌集

「日本書紀」の衣通郎姫の始まった桜精たちは、

「万葉集」の桜児説話、「源氏物語」の花宴の朧月夜君へ

さらに「花筐」の照日前の狂気の舞いへ、

さくらを美しい女性になぞらえたのは

この国の男達の優しさだろうか、

三日間も冬のような日が続いた

いつもの年なら桜を待って動き始める季節を迎えたというのに

一向に心に動こうという気が起こらないのはどうしてだろうか

もう四十年以上も続けてきた桜旅である、飽きるというのは

当てはまらないだろう、

「さくらが咲いた」気配を感じたなら、たとえ冷たい雨が

降ろうがさくらの元へ出かけない日は無かったのに・・・

ひとつだけ想いあたることがある、

それは、さくらが咲くことを待つのではなく

そのさくらの持つ奥深い桜精に

どうしたら逢えるかではないのか

何もさくらが咲いたといって急ぐ必要はない

もう、さくらを見るだけの数を競うことは

無意味だと感じ始めているのですから。

日本のさくらはもうその大部分が、人間の手によって

植栽され、自生のさくらはほとんど消え始めているらしい、

ならば、残り少ない自生の桜に最後の別れを告げにいくのも

また一興かもしれない、さくらには何らかの物語を秘めて

いるはず と信じられるのなら出かけない手はないでしょう、

さくらは生長の早い樹木です、

五十年もすれば想像以上に大樹に姿を変える、

二百年もすれば、もうその起源、誰がどうしてここに植えたのか、

は不明になる、

五百年過ぎれば、もう神の領域になるでしょう、

そんなさくらにゆっくりと話しかけてみる桜旅が

年老いた旅人には相応しいかもしれないですね、

雨上がりの朝、伏せ姫桜と、妙行寺の枝垂桜を

訪ねてみた、今、一番逢いたいさくらだけを気の向くままに

訪ね歩いたら、きっといつもと異なる

さくらの精に逢えるかも知れないから・・・

(辛夷がこんなに美しいとは・・・)

仕事を追えた夕暮れ前、訪ねたのは東京で数少ないシダレサクラ、

かつての大名屋敷の庭園にその桜は孤高の姿であるはず、

その大きさ、枝振りの良さは、まだ樹齢七十年ほどであるのに

もう江戸時代からそこにあり続けているような風情が漂って

いるのです。

しかし、訪ねた日が夕方とあって、ライトアップを目当ての観客

とかち合ってしまいました、とてもゆっくりと鑑賞する

余裕はありません、皆さんの邪魔にならぬようそっと抜け出して

そのシダレサクラに負けぬほどの辛夷の大樹の元へ、

(この辛夷には花の精が宿っている)

ハラハラと散り始めた辛夷の姿の美しさにしばし息を呑む、

桜が咲くと、桜だけに目がいって他の花たちへの眼差しが

消えてしまうのは気をつけなければ と、その辛夷の花から

教えられていたようですな。

まだほんの数輪しか咲いていないソメイヨシノをゆっくりと

見つめながら、

「さくらは満開だけではなかった」

と呟いていた東京の桜でございます。

(咲き始めたばかりのソメイヨシノ)

さて、どこへ行こうか桜旅、古人が美女に例えたさくらに

逢えるかも知れない予感のままにゆっくりと歩き出すと

いたしますかね。

(2018年のさくら)