富士見町、富士見台、富士見坂、富士見橋・・・

今も東京にはいたるところに「富士」の名が残っています。

それだけこの東京から富士山が見られたということなのですが

今はその地名のつく場所に行ってみても中々見ることはできません、

空が汚れてしまい透明感が消えてしまったこと

高いビルが連立してその視界が遮られてしまったこと、

見たいときに見られないのが富士山になってしまったのですね。

東京から多くの人がふるさとに向け移動してしまい、

会社、工場が休みになる正月、東京にも束の間の透明感のある空が

蘇ってきます。

西高東低の冬型の気圧配置は北から南へと寒気を伴った木枯らしとなって

吹き付けてくる。

これで条件が整ったというわけで、コートにマフラーで防寒姿となった

おじさんは吹き晒しの橋の上で西の空を見上げるのでございます。

正月から仕事に明け暮れていた者へのこれは美しい贈り物なんです。

物好きと言われ様が、この場に佇んだ者だけが手にすることができる

朝のひとときに、じっと富士の姿を眺める、

これが今年一年の良き事の初めなり。

安政6年(1859年)、イギリス外交官オールコックは長崎から江戸に入り

高輪東禅寺に英国総領事館を開いた。

時は幕末、井伊直弼が桜田門で殺害され攘夷派が夷荻を撃ち払えの勢力が

盛り返し騒然とした世情の中で、オールコックは肝が据わっていたのか

悠然と江戸の町を歩きまわり、後に『大君の都』を書き残している。

江戸の高台から晴れた日にくっきりと見えていた富士山、

彼は猛烈に好奇心を発揮し、あの富士山に登りたいと幕府に願い出たのです。

驚いたのは幕府の閣老たち、江戸の市中でさえ警備に神経を尖らせていただけに

日本人の神聖な信仰の山に外国人が登ることなど考えるのも恐ろしいことだった

でしょう。

しかし、オールコックは「日英修好通商条約」第一条の

「首都における居住の権利と、帝国内どこでも自由に旅行できる権利」を盾に

粘りに粘って富士登山を決行するのです。

万延元年7月19日、神奈川のイギリス領事館で登山の準備を整え

オールコック以下公使館員6名に英国インド艦隊ロビンソン大尉、植物学者の

ヴィーチを加え8人のはずが、幕府の要求は護衛の奉行、役人、荷駄人夫など

三十頭の馬と百人の大行列になったという、しかもその費用は全てオールコック側の

負担だという。

それでも彼の好奇心はかの富士山へと向かわせたのです。

戸塚で朝食、藤沢で一泊目、二日目は酒匂川の増水に悩まされながら小田原で宿泊、

いよいよ箱根越えは土砂降りの中、芦ノ湖畔の本陣にたどり着く。

翌日は雨もあがり三島への峠からの眺望をまるで絵画のようだと記している。

三島、沼津、吉原で一泊、いよいよ東海道と別れ最後の村里村山(富士宮)で

気を引き締めて大鏡坊に泊まる。

7月25日、天気は上々で、待ちに待った富士登山の開始である。

溶岩台地を日暮れまで登り摘め、中腹の石室に宿泊、蚤に悩まされ眠れない夜を

過ごしている。

7月26日早朝、コーヒーとビスケットで朝食をとった後、最後の力を振り絞って

ついに頂上に立った。

こうしてオールコックは外国人として最初の富士登山者となったのです。

富士登山の一席でございました。

夕暮れを待って、江戸川の辺へ向かう、

ビルとビルの間からあの富士の姿が茜色に染まっていた。

今年も 「東京富士」はその神々しい姿を見せてくれました。

鼻水をすすりながら寒風に吹かれていても、心の中はなんだかポカポカと

春のようでしたよ。

今年の初夢 一富士、二鷹、三なすび でございます。