平家が全盛の時代の永暦元年七月、

藤原清輔邸で歌合せがありましてね

その席で顕昭僧正が詠んだ歌は

 『わぎもこが はこねの山の糸桜

    結びおきたる花かとぞ見る』

というのですが、この箱根の山中で見つかった糸桜と

いうのは実は江戸彼岸の突然変異で枝垂れ桜だったのです。

その枝垂れ桜はこの箱根から京の都へはこばれ、

今まで山桜しかみたことのない都人は,

僅かな風にも揺れるその桜の優しい風情にこころ

奪われたに違いありません。

以来、都の寺社や貴族の邸宅にこの枝垂れ桜が

ひろまったのです。

まだソメイヨシノが足踏みをしている束の間、

枝垂れ桜がその優雅な姿を惜しげもなく見せてくれています。

随分夕暮れが遅くなりました、そのお陰で何とか明るさの

残るうちにその枝垂れ桜の元へ駆けつけることができました。

山茱萸(さんしゅゆ)の花が覆いつくす木戸口を潜り抜けると

辺り一面が枝垂れ桜というのは息を呑む美しさです、

しかし、上州の夕暮れは思いのほか冷たい風に身体の方は

震えてしまいます。

「6時になるとライトアップが始まるんだよ」

三脚を立て、その時間を今や遅しと待ち構える

カメラマンが教えてくれた。

私はしばらく写真を忘れ、まるで雪の降るような

その枝垂れ桜の懐で暮れて行く空を見上げて

おりました。

西の空に陽が沈む一瞬だけ、真っ赤な閃光が一筋

その純白の桜を紅に染めて消えた。

「今の見ましたか、あんなに素晴らしい

  ライトアップを見せてくれたなんて」

陽が沈み西の空が紅に染まった時を待っていたように

鐘楼の鐘が鳴り渡ると、境内の桜の元を灯りが照らし始めた。

夕暮れが深くなるにしたがって、桜たちが浮き上がってくる。

カメラを持つ手が熱を奪われ、悴んでしまう寒さに

何時の間にか人の姿が消えてしまった。

「二人だけになってしまいましたね」

そのカメラマンはその悴む手を何度も擦りながらシャッターを

押した。

静かな境内にシャッターの音が以外に大きく響いていた。

都の櫻だとばかり思っていた枝垂れ桜が実は東国の桜

だったことを知ってから、

その枝垂れ桜を捜し求める旅が始まってしまったようです。

僅かな風にも儚げに揺れる桜花、

そのはじまりが、アズマヒガンザクラだと知れば、

「どうです、東国の桜は・・・」

と胸を張りたくなる桜旅の途中です。