泉鏡花の数ある作品の中に 『神樂坂七不思議』という小品がある、

彼の22歳の頃の作品で、これぞと言うほどの特徴もなくあっという間に

読み終わってしまうのですが、鏡花の人生に興味を持つとこの神楽坂という

街が意味を持ってくるのです。

いつだったか金沢を旅した折、鏡花の生家(今は泉鏡花記念館)を訪ね、

小学生時代に学校への行き帰りに通ったという小路を歩いたことが

ありましてね、それは主計町の花街を通り抜ける小路で、

大人たちがひと目を忍んで、また本妻に踏み込まれて裏から逃げ出し

ためにあったという裏道でありましてね、神社の脇から境内を

抜けるとまるで参拝にやってきたような顔でさりげなく

花街を後にすることができるようになっているのですよ。

そういう色町を子供の頃から遊び場でそだった少年はいつのまにか

花街が当たり前の大人に育ったのでしょうかね。

十歳で母親を亡くした鏡花は、何時の間にか潔癖症を身につけ、

18歳で東京へやってくるのです、牛込の尾崎紅葉の元に書生として住み込み

ひたすら小説家への道を励むのです、

しかし、人生とは紆余曲折が当たり前、脚気と胃腸病に悩まされていた鏡花の

身の回りの手伝いをするために吉田賢龍の紹介によってやってきた伊東すずと

同棲を始めるのは鏡花30歳の男盛りであった。

すずは神楽坂で桃太郎として褄をとっていた女性であったが、鏡花には

花街の女性は珍しい存在ではなかったのかもしれない、

しかし、師の尾崎紅葉からは、「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで

猛反対を受けてしまう、しかし、その師紅葉はその歳の秋に没してしまう。

すずと正式に結婚した鏡花は、花街神楽坂で生活を続けるのです。

久し振りに神楽坂を歩く、

神楽坂下から繁華街を登り始めて最初の角を曲がった先辺りが、鏡花夫妻が

住んでいたらしいのですが、今は全くその跡形もな、

そうですよね、百年も前のことですからね、

神楽坂も戦災で無残に焼け落ちてしまったのですが、

今は、往年の花街も復活して独特の雰囲気を取り戻し始めて

いるようですね、

この街に初めて足を踏み込んだのは、もう30年ほど前のこと、

それまで、浅草や柳橋の花街に出入りしていたのですが、

お得意さんの社長さんから、

「神楽坂には若い芸者衆が増えたらしい」と連れて行かれたのが

最初でしたね。

お座敷遊びを覚えたのも此処でしたよ、

今は、柳橋は見番も解散、浅草も昔の賑わいは消えかかり

花街文化も風前の灯火なんですよ、

果たして日本文化の粋はこのまま途絶えてしまうのか、

細々でもいいですから、あの灯りだけは消えないで欲しいですね、

損得だけで物事を判断する風潮の中では、もしかしたら花街文化は

よほど気に留めていないと、ある日パッタリと消えてしまうかも

しれませんですよ、

銀座や六本木のクラブで三味線や太鼓や笛の音は聞こえないでしょうね、

それとも、箸でフランス料理や、イタリヤ料理を食べさせる店が

ここ神楽坂で人気になっているとか、

どうか日本文化を消さないで欲しいですね、

鏡花さん、きっと腕組しながら

「お前さん、そいつは日本人のやる事じゃありませんよ」

と呟いているかもしれませんですよ。