『舂(うすづ)ける彼岸秋陽に

     狐ばな赤々そまれりここはどこのみち』

      木下利玄 (『みかんの木』大正14)

  『彼岸花さくふるさとはお墓のあるばかり』

             (種田山頭火『草木塔』)

鐘の音に引き込まれたのではない

秋の風が背中を押したのでもない

気がつけばその花の真ん中にじっと佇んでいた

紛れもなく彼岸の彼方から誰かが手招きをしたのである

先日来、行く先行く先が母の縁の場であれば、今朝も母の

無言の招きに違いない

先日訪ねた湯島天神の境内で立ち止まったのは

『小唄功労者顕彰碑』の前でした、

この境内はもう何度も訪れていたのにそこにこのような碑が

あることを知らなかったのです。

昭和45年建立とあり、功労者の名が刻まれている、

何気なく目で追っている中に 蓼胡津留師匠の名を見つけておりましてね

 「小唄の蓼派を起したのは 初代蓼派家元蓼胡蝶師匠、昭和2年の
ことで、その後を継いだのは孫娘の蝶次さんが2代目蓼胡蝶を襲名、
  昭和52年に2代目も亡くなられ、その後、家元制から「蓼派会」という
  会による運営に改められ、初代幹事長に蓼胡津留師匠が就任。
平成元年に2代目幹事蓼胡満喜師匠、その後、平成14年に3代目
会長蓼胡房師匠が就任し、現在に至っています。」

母の師匠であった蓼胡津留先生の名を見つけた時、これは母が呼んだに

違いないと思えたのです。

胡満喜師匠、胡房師匠みなさん懐かしいお名前なんです。

その日が彼岸の入りだったことを知り妙に納得していたのですが

再び呼び寄せられたのが彼岸の花の咲く処だったのですね。

母上、そちらはさぞ賑やかなことでしょうね、三味線の名人が、

美声の主が粋な喉を聞かせてくれているのですから・・・

この世とあの世の間には『中陰』という世界があると聴いたことがあります、

アタシの一番上の兄は、まだ子供だった頃、大病にかかりあの世のとば口を

彷徨ったことがありました、

「お花畑が広がったその先に、白い大きな船が止まっていてな、
 その船の上に人がずらっと並んで、皆でこっちへおいで と
 手招きしてるんだよ、何とかその船の方に行こうともがくのだが
 誰かに背中を押さえられて一歩も進めないのだ、あの時見た
 お花畑は今でもよーく覚えているんだよ」

もう八十を超えてた兄は、今でも時々その話をしてくれるのです。

多分、兄は『中陰』の世界を彷徨ったのだと今でも硬く信じているのです。

でも、そんなに美しいお花畑が目の前に広がっているなら、

そんなに怖がらなくていいのかもしれない と兄の話を聴く度に

思いなおしているんです。

彼岸の花の咲く庭先に、朝の風にのって微かに三味線の爪弾く

音色が聞こえてきたのは

あれは確かに母上の音色でしたよね・・・

  『曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよし

     そこ過ぎてゐるしづかなる径』

        木下利玄 (『李青集』大正14)