『命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。

かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。

つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。

飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。

住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。

命長ければ辱多し。

長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、

人に出ヰで交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、

さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、

もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。 』

     吉田兼好『徒然草』七段 より

秋というのは突然現れるわけではない、山川草木のすべてが

少しづつ移り変わっていく様をなんとなく感じながら気づいたら

すっかり秋になっていた なんていう感じ方がいいのでありますが、

何しろ命にかかわる猛暑の中で暮らしていると、

「冗談じゃないよ、いつまで続くんだいこの暑さは・・・」

と気の短い下町っ子は我慢できないのでありましてね。

秋が中々来てくれないならこちらから訪ねていこうじゃないか

と、都会を抜け出してまっしぐら、

昔じゃ旅をするのも大仕事、水杯で別れる覚悟がなけりゃ

出かけることも出来なかったのですから、今はありがたいことですよ。

片道5日も6日もかかった山の上の湖の辺に佇んだのは僅か2時間後、

36度の都会の暑さが嘘みたいな爽やかな風が湖面を渡ってくる。

何時も持ち歩く温度計は23度、まあ、数字に頼らなくても十分に

秋が漂っていることは感じられますがね。

寝不足続きの疲れからか、湖畔のベンチでうつらうつら、

至福の刻 というのはこういうことなんですかね。

気がつくと、半袖では少し肌寒いくらいの風が夕暮れを運んできて

おりましてね。

さっきまで空には夏雲が聳え立っていたはずなのに、

流れる雲は秋姿、

アカネが飛び交う山上湖はもうすっかり秋色です。

もってきたのは一冊の本 と小さなカメラ、

嫌味の権化のような兼行法師のひとこと一言に思わずにんまり、

小さな波の音を聞きながらそっとその言の葉に

耳を傍立てることこそをかしけれ・・・

「都にて 月をあはれと おもひしは

数よりほかの すさびなりけり」 西行

都会で感じていた もののあわれ は すさび(ざれごと)であった

と西行は旅の中で感じていたのですよ。

アタシには旅もまた すさび ですがね。