我が家のご先祖を探り至れば、遥か江戸の昔より

利根川を行き来した船運を生業にしていたことに

行き着く。

そう知ってみれば利根川がやけに身近な感じてしまうのは

遺伝子のなせる技なのだろう。

赤松宗旦著『利根川図誌』を夢中で読みふけったのも

その延長上のことだったのかもしれない。

銚子、佐原、神崎、木下、境、関宿・・・

旅先に 川湊として栄え、今は衰退してしまった町を

選び出すのは旅情を楽しむだけではない気がしているのです。

佐原を訪ねる度に、北総の地に寄り道していくことは

何にも変えがたい喜びに変わっている。

そんな旅の途中で『小御門』という雅な名に出会ったのです。

滑川の駅を降りると、目の前に大きな朱塗りの鳥居が目に飛び込んで

くる、その大きな鳥居は小御門神社への参道でもあると教えられた。

真夏の陽射しは容赦なく照り付けてくる、何でこの熱さの中、

てくてくと田圃道を歩いているのか・・・

『狂多くして出遊を愛す』

先人の言葉が朦朧とした頭を過ぎる。

とうとう誰とも出会うことなくその小御門神社へ、

下総町名古屋という地名を確認するも、まことに

静かなものでありますよ。

大きな石柱に『別格官幣社』の文字、それとは対照的に

寂れた風情を感じてしまう。

祭神 藤原師賢、

あの鎌倉幕府が滅びる寸前、後醍醐天皇の側近として使え

弾正尹を兼ね大納言を任されたあの人である。

北条高時に反旗を翻した後醍醐天皇の身代わりとして

御衣を賜り叡山に上がられたが、その身代わりが発覚し

元弘二年五月下総国へ流されてしまう。

六月になり下総国名古屋の里の配所に着かれ、

  いにしへは露分けわびし虫の音を
    たつねぬ草のまくらにぞ聞く   師賢

やがて十月になって病の床に伏され

  死出の山越えんも知らでみやこ人
    なほさりとも吾をまつらん   師賢

を残されて此処下総の地で薨去、三十二歳であった。

翌元弘三年鎌倉幕府は瓦解し、天皇は流配地でなくなった師賢へ

太政大臣を贈り、文貞公のの諡号を与えられた。

下総名古屋の地に残された物語は、現代にどのように伝えられて

いるのか、怨霊になったということもない師賢を祭神として

今も祀り伝えている。

手を合わせていると何処からともなく馥郁とした香り、

目を凝らせば 境内にヤマユリの大輪、

  古郷のおなじ空とは思ひ出でじ
    かたみの月のくもりもぞする   師賢

今宵はどのような月が顔をだすのだろうか・・・

小御門神社を辞し、名古屋地内を歩いていくと、

青空に翩翻とたなびくまつり幡、

聞けば 助崎須賀神社の例祭があるとのこと、

7月22日が祭礼、日にちは変更しない昔からの

仕来りを守っているという。

先ほど訪ねた小御門神社は、この地にとっては客人である

都人を祀ってはいても、地域としては平安の時代から

続いているという須賀神社の祭礼を大切にしているらしい。

さて、これも何かのご縁かもしれないこの地の祭り

を見せていただくとしますかね。