「アンタ、さっきから何見てるんだい」

ブルーシートの家の前で歯を磨いていた男が

問いかけてきた。

「桜だよ」

「桜なんてみんな散っちまってありゃしないじゃないか」

「花は散ったけど桜の樹は

今もちゃんとあるからさ、

それに静かでいいだろ」

「あんた変わってるね」

「お前さんに言われたくないやね」

「お陰で静かになって良かったけどな、

桜が満開の頃は オレたちの居場所もなくてな、

目障りだからどこか他へ行けって、

犬や猫じゃあるまいし」

「そうか、桜はそんなことまで引き起こすんだ、

でも桜には何の罪もないから桜を悪く思うなよな」

「オレだって桜は嫌いじゃないさ、でも、

桜を見るんだか酔いつぶれんのか

わけわかんないヤツばかりでよ」

「まあ、そう怒るなよ、桜が散ったらみんな静かに

なったろ、みんな寂しいんだからせめて桜の咲いてる

間だけでも浮かれたくなるだけだからさ」

「ところであんた、葉だけの桜が好きなのかい」

「桜は葉も花も枝もみんな好きなだけだよ」

「ふーん!」

会話はそれで終わった。

本当はね、桜満開の土手の散歩は寒くてね、

今なら風に吹かれてのんびり散歩が楽しめるのさ。

『都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る』

野口雨情の歌碑がこんなところにあったのか、

桜満開の人込みの中に紛れていたんですね。

そうだ長命寺の桜もち買っていこう・・・

向島の花街も桜が散ったらまるで灯が消えたよう、

お稽古から帰る芸者衆も何やら浮かない顔ですれ違う。

桜と共にみんな気が抜けたのかな。

散歩のおじさんだけは何事も無かったように桜もちかかえて

ふらりふらりの下町散歩でございます。