織田 信雄(おだ のぶかつ/のぶお)

永禄元年(1558年)、あの信長の次男として

生を受ける。

しかし、彼の後の人の評価は父信長に比せられ

暗遇の謗りを受けているが、その生き様は中々に

しぶとく、父信長の威厳を的確に利用し、

秀吉、家康に取り入り子孫を現代にまで残した

ことはとても暗遇とは思えない人物ではないか、

そんな興味から織田信雄から七代に渡り納めた

小幡の地を久し振りに訪ねてみた。

上野国甘楽郡小幡は桜が咲く頃になるとその美しさは

また格別のものがあるのです。

いつ築かれたか不明なのですが、山から湧き出した流れを

堰堤より取水し、その清流は町の中に用水として匠に

利用されている。

それは雄川堰と呼ばれ今も絶える事の無い豊かな清流が

八方に張り巡らされこの町を潤い続けているのです。

寛永19年(1642年)、織田氏は甘楽郡福島にあった陣屋を

ここ小幡に移転させたのはこの雄川堰があったからだ

と言われている。

一番口取水口を訪ねると、そこは花に囲まれた美しさで

思わず見惚れてしまう、

今も一人ひとりの個人がこの堰をいかに大切に

扱われているかが忍ばれるのです。

織田家七代の墓所は掃き清められ桜の木々に囲まれていた。

織田家が明和事件に連座して七代藩主信邦は蟄居処分となり、

信邦の後を継いだ養嗣子・織田信浮は出羽国高畠藩へ

移されてしまった後も、織田家の墓所がこのように

美しく残されていることはこの地の人々に快く

受け入れられていたに違いありませんね。

通い慣れた町中に戻ると、この雄川堰の辺は桜の花が咲き誇って

おりました。

その町が持っている歴史を受け入れこの移り行く現代にあって

美しさを保ち続けているこの町の人々のこころにいつも

感動させられてしまうのです。

小さくても光り輝く町 小幡 いつまでも輝き続けてほしいと

こころから願う桜旅の途中です。