どんな花でも一年に一回しか逢えないのに、それが桜になると

どうして心が騒ぐのでしょうか。

今年は咲き始めが早かったのにどうしたというのでしょうか、

もう散ってしまっているはずの桜が中々散らないというのは・・・

その間に春の嵐のような突風が吹きつけても、儚いはずの桜は

確りと枝にとどまっているのです。

何だか本当の桜の力を見せてもらっているようです。

いつもならこんなに早く咲き始めたらもう今頃はみちのくの辺りを

賑わせているはずなのにまだ常陸の国です。

下調べせずに旅立つのが桜旅の私の流儀、山で出逢う桜は花がなければ

全く見つけることが出来ないので、この時期をはずしたら新たな山桜に

逢うことができないのです。

今までもそうやって沢山の山桜に出逢ってきました、これからも

そのやり方は変わらないでしょう、事前に調べてから出かけると、

出逢いの感動が薄れてしまいそうでね。

車のフロントガラスにすっかり花が散ってしまった桜が

後ろへ流れていきます。

北に向かうに従ってやがて花をつけた桜が目に留まります、

「今日はこの辺りかな」

降りたのは常陸太田、あの水戸の黄門様が終の棲家に決めた町です。

その場に佇むとまるであの吉野を思わせる桜の山です。

名を十国峠と呼ぶらしくその眺めははるか彼方の常陸の山並みまで

見通せるのですね。

「桜を上から眺められるのはここだけなんですよ」

まるで古武士を思わせる老人が双眼鏡を下ろすと

語りかけてくださった。

「ここは久昌寺といって、光圀公の生母久昌院菩の冥福を

   祈るために建てた菩提寺なんですよ」

その後ろで控えめに佇む老夫人が微笑みながら頷かれた。

徳川光圀公は儒学を奨励し、自らの墓を儒教式にしたように、

水戸藩主として公式的立場では儒教を重んじていました。

その一方で、法華経信仰をも重んじていたのです、

生母靖定夫人(久昌院)の菩提寺で水戸にあった日蓮宗経王寺を

常陸太田に移転し、新たに大伽藍を建立して久昌寺を開き、

母の供養のために

三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌と

都合7回も法華経を書写しています。

光圀自身の信仰については幼い時に、養珠院お万の方の仰せによって

身延山二十六世日暹(にっせん)上人から法華経受持の式をうけ、

後には身延山三十一世日脱上人、さらに京都本圀寺二十世日隆上人からも

同様の式をうけたのですが、しかし、このことは日乗上人に、

他言しないよう固く口止めをされていたといいます。

まだまだお話をお聞きしたかったのですが、

せっかくご夫婦水入らずでのお花見をお邪魔しては申し訳ないので

お礼を言ってその場を後にいたしました。

まるで散るのを待っていたように、微かな春の風にはらはらと

散り始めた桜の下ですれ違った母娘の肩にもふりそそぐ、

それは見事な花衣でした。

久昌寺の境内にも大きな桜が散り始めています。

水子地蔵の上にも舞い散る花はこの世に生まれることの無かった

子供の顔に、その赤い前掛けに

花の衣を着せているのでしょうね。

  密やかに見上げる稚児の花ごろも 散人