江戸の昔から浅草は庶民の娯楽の殿堂でした、
浅草寺裏の奥山と呼ばれていた地には演芸、見世物、
飲食の屋台、楊弓、土産物屋が建ち並び、連日人が
押し寄せていたといいます。
やがて明治へと時代が大変化しても、浅草の繁華街は
しぶとく生き残ったのですよ。
太政官布告なんていう物々しいお触れで浅草寺境内は
浅草公園と命名され、一区から七区までに区画されたのでしてね、
昔から奥山にあった見世物小屋などは、六区と呼ばれる地区に
集められ再び息を吹き返したのです。
演劇、玉乗り、安来節に浪花節、やがて活動写真なんていうものが
流行りだすと、真っ先に映画専門館が出来たのもここ浅草六区だった
のですよ。
(二年前の秋映画館が閉鎖された)
アタシがまだ子供だった頃、オヤジにその映画館へ連れられて
いきましたよ、あれは昭和二十年代の終わりごろでしたね、
何しろ映画館の扉が閉まらないほど人で溢れていたんですよ、
オヤジは無声映画の頃から映画館に入り浸りだったらしいのですが、
アタシ等のころは、もっぱらチャンバラ映画全盛でしてね、
嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』、市川右太衛門の『旗本退屈男』、
月形龍之介、大友柳太朗、なんてメンコの中まで登場して
それはそれは楽しい時代でしたね。
中村錦之助、東千代之助なんていう新しいスターも登場して、
映画こそ娯楽の筆頭なんていう時代、此処六区は仲見世の
人の波がこちらへ移ってきたような賑わいだったのですがね・・・
僅かに残っていた六区の映画館、
三本立て¥800で一日暇を潰せるなんていうので、定年後の
オヤジたちの暇つぶしみたいになっちまっていたんですが、
とうとう閉館に、
中からイスを運び出している業者さんに聞くと
「ああ、終わりだよ」
とうとう六区から映画館が消える日がきてしまったんです。
人通りの消えた六区に立ち止まるのは、散歩のオヤジひとりか・・・
終わりを知らせるのは小さな貼り紙一枚、
消えていくモノは密やかなんですよ。
「オヤジの大好きだった六区の映画館もとうとう終わっちまったよ」
いつもの散歩がなんだか寂しいものになりました、
時代は人が創るもの、坂道を下り始めた時代は誰も止められない
ということですよ。
またひとつ、記憶の中に閉じ込めるモノが増えました。
新しいモノはやがて古くなりそして消えていく、
人間も同じなんですよ、あなた・・・
(2015年11月 記す)
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