今年の桜旅は終わりにしよう と自分にけじめをつけた

つもりでおりましたのに、雅代さんからの連絡が

「今朝見に行ったら三分くらいだったのに

 この暖かさで咲いてしまいましたよ」

耳元での彼女のささやきを封じることなど桜狂いに

出来るはずはありませんでしょ。

「今から東京を出れば何とか明るさが残っているうちに

 つけるかもしれないから・・・」

そして三時間半後、その桜の山里に佇んでおりました。

雅代さんはその桜の下で

「本当にいらしたんですね」

「だってあの約束を忘れないでいてくれたのですから」

それは三年前のことです、

偶然訪ねたこの桜は、まだほんの一握りほどの花を開かせたばかりでした、

その桜の下でお目にかかった雅代さんは微笑みながら

「この桜はね、朝咲いたばかりでも、その日が暖かいと夕方には

 一気に咲いてしまうのです」

「そんな一度に咲ききる桜をいつか眺めてみたいです」

雅代さんは、その時の約束を忘れてはいなかったのです、

「ここに登ってくる途中で里の桜を見てきました、

 小学校の桜も今が見ごろなんですね。」

「そうなんです、此処は山里でしょ、桜は鯉幟が泳ぐ頃に

一斉に咲くのです、

 でも、今年の新入生はたった二人なんです・・・」

「そうでしたか、そんな全ての人の営みも此の桜は

 見守り続けているんですね」

雅代さんは日々の暮らしのつらいことも、哀しいことも、

此の桜が全て振り払ってくれるような気がするのだと呟いた。

暮れていく山の端にすっくと立っている山桜、

多分400年くらいは経っているというが、その年数が貴重なのではない、

この厳しい山里で営々と生き続ける山人の想いを全て受け止めてくれる

其のことがこの山桜の存在を高めているのですね。

久し振りにお目にかかった雅代さんとの語りは

時間の経つことも忘れてしまいました。

「今夜はどちらへお泊りですか」

「いや、このまま戻ります」

「そうですか、またお目にかかれるといいですね」

その言葉は、桜にだろうか、それとも雅代さんにだろうか・・・

峠の上でもう一度振り返った、

雅代さんは豆粒のような姿でまだあの山桜を見つめていた。

「またお目にかかれるといいですね」

これはもしかしたら幻の桜旅だったのかもしれません、

でも560kmを走りきった後の背中の痛みが山桜を見上げている雅代さんの

姿と一緒に記憶の中にきっと残り続けるのでしょうね。