その年に初めて聞く郭公(ほととぎす)の鳴き声を

忍音(しのびね)といって古来よりこの国では

夏の季節を感じられるとして好んで聞き耳をたてて

いたといいます。

時鳥を詠んだ和歌の多さは、そのことを今の世にまで伝えて

くれるのです。

 夏の夜の臥すかとすれば郭公
     鳴く一声に明くる東雲   紀 貫之(古今和歌集)

 行きやらで山路暮らしつ郭公
     今一声の聞かまほしさに  源 公忠(拾遺和歌集)

 都人寝で待つらめや郭公
     今ぞ山辺を鳴きて出づなる 道綱の母(拾遺和歌集)

卯の花と郭公の取り合わせというのは、佐々木信綱先生の「夏は来ぬ」

の歌だけではありませんでね、

 卯の花の咲ける垣根の月清み
     いねず聞けやとや鳴く郭公  詠み人知らず(後選和歌集)

 郭公我とはなしに卯の花の
     うき世の中に鳴きわたるらん 凡河内躬恒(古今和歌集)

目に見えぬ郭公の鳴き声とは、どれほどの人々のこころに

忍び込んでいたのでしょうかね。

若い頃は、郭公の鳴き声など全く興味などなく、それどころか

レーシングカーの爆音に心を高揚させていた暴走少年も、

齢を重ねて半世紀もすると、郭公の声をわくわくしながら

待ちわびる爺になるのでしてね、少し横道にそれた若者など

そう心配することはありませんですよ、

四季のある国に育った少年は、知らず知らずのうちに

自然の素晴らしさを身につけて育つのですからね。

と昔を忍びつつ、ことしも郭公の鳴き声に耳を傾ける季節を

むかえましたね、

田植えの終わった田圃では、そろそろ蛙が鳴き始め、

ほら卯の花だって咲き始めていますよ、

そういえば、今年はまだ忍び音を聞けないでいるのですよ。

毎年のことになると、その忍び音を何処で聞こうかと

あれこれ考え始めるのです。

何かに拘ってみるという気にさせるのが郭公の忍び音なんですね。

清少納言に習って都まで遠征するというのも少し大袈裟すぎるだろう、

それじゃ実朝を真似て、鎌倉二階堂辺りをうろついてみるなんていうのは

何度も試してみましたが、なにしろ相手は気まぐれな郭公ですから

予想とおりになんていきませんですよ、

まあ、大抵は予想もしなかった場所で突然、

「キョッキョッ キョキョキョキョ」

なんて鳴かれてごらんなさいよ、鳥肌が立つほど感動しますから。

今までも、上総の山中で、逗子の神武寺で、赤城山の白樺の森で、

そして筑波嶺の山麓でとこの突然の忍び音に出会ってきましてね、

もう夏を前の梅雨時の不快な陽気も吹き飛ぶほどの感動をいたしますからね。

そういえば郭公の忍び音を聞けた日というのは、カンカン照りの夏の日というのは

少なかったですね、今にも雨の降りそうな曇り空なんていうのが確率がいいようで

本日は、ちょうどそんな日なんです、

鎌倉は紫陽花人気でとても忍び音を聞くなんていう環境ではないだろうし、

「そうだ、あそこにしよう」

とやって来たのは、ゴトゴトと水車の廻る密やかな集落、

その水車で挽いた蕎麦をすすり、心穏やかに店の庭をそぞろ歩く。

放し飼いの烏骨鶏が美声とは思えぬ鳴き声を発すると、裏の欅の林の奥から

突然、「キョッキョッ キョキョキョキョ」

あっ! 郭公ですよ。

思わぬところで今年の忍び音を聞く、

突然羽音を羽ばたかせたと思うと、今にも泣きそうな曇り空目掛けて

郭公が飛び立ったのです。

「キョッキョッ キョキョキョキョ」

あの不器用な飛び方で、鳴きながら飛ぶ郭公、

まるであっちへよろよろ、こっちへふらふら、まるでアタシの人生を

見ているようじゃありませんか。

 何処へ行くのか郭公 なじみの人がいるじゃなし  散人

今年も夏がやってまいりましたな。