道のへの 茨の末に 延ほ豆の

 からまる君を はかれ行かむ

丈部鳥(万葉集巻20の4352 より)

ばらの花は今では西洋の花の代表のように想われますが、

わが国でも万葉の時代から歌にも詠まれた美しい花だったのですね。

古今和歌集の中で 紀 貫之は

 さうび と題して

 「我はけさうひにぞ見つる 花の色を

    あだなるものと 言ふべかりけり」

という歌を残している。

さうびとは・・・調べてみれば 薔薇(さうび)なのですね。

さらにさらに、現在二万種類の薔薇があると云われておりますが、

その原種はたったの十種、すべてがアジアにあるとのこと、

中でも三種は日本産だとか、すると薔薇にもっと愛を注ぐべきか・・・

何しろ人生の半分以上を桜に捧げてしまった旅人は、桜の持つ花霊に

とりつかれてしまったのですから、薔薇にだけは近寄るまいと硬く

心に誓っておりましたのです。

桜に宿るは 木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)

薔薇に宿るは 愛と美の女神「アフロディーテ」

クレオパトラは薔薇を敷き詰めた風呂で妖艶な微笑を武器にしたとか、

桜狂いには、薔薇の持つ退廃的な雰囲気が遠ざける

理由だったのでしょうかね、

つい先日、雨の中、都会の小さな公園に足を踏み入れたのは、

今でも理由は判りませんが、そこに密やかに咲いていたのは薔薇の花、

思わずかがみこんで雨に濡れたその薔薇の花を見つめてしまったのです、

あれほど近づかないように警戒していたというのに。

薔薇には感染させる何かがあることをあまりに軽くみておりました、

いまさら反省しても後の祭りです、

あの日から、薔薇の夢を見るし、それに今は薔薇が一番美しい時、

咲いている薔薇の傍へ知らぬ間に惹きつけられているのです。

はっきりいって アタシは薔薇の感染者に成り果ててしまったのです、

ああ、桜に何と言い訳をしよう・・・。

近頃、我が家の庭に薔薇の花が咲いている、

鬼姫様は

「今年も咲きましたのよ、なんだか少し自信がついたみたいです」

そして、悪いことに「薔薇が見られるところへ連れていくように」と

のたまうのです。

庭の薔薇にさえ、近寄らずにいたのに

「はい、参ります!」

とふたつ返事、薔薇の菌は防ぎようもありませんですよ。

茨城の地名の元になったという常陸の山間に広大なバラの園がある、

全てがバラで埋っている、

「ああ、薔薇行脚が始まってしまう、

  まして薔薇は春と秋の二度の花の時期がある」

というのですよ、

桜に何と言い訳しましょうか、

「薔薇を愛せるか、いや本心は桜一途です」

そんなどこかの偉い総理のようにしゃーしゃーと二枚舌を使えるか、

薔薇の花の前で言い訳を呟いている旅の途中でのこと。

(コロナによる自粛にて旅ができず記憶の引き出しから
 引っ張り出して旅している気分でございます。)