今年も三度目の「田遊び」を観るために徳丸北野神社を

お訪ねいたしました。

一昨年は雪の降った後で、余りの寒さにとうとう途中で

挫折し、昨年は最後まで観続けることができましたが、

いろいろと疑問点が湧き上がりましてね、その真相を

確かめるべく今年が三度目の訪問となりました。

昨日は北風が吹き荒れておりましたのに今夜はこの時期に

しては暖かな日和でほっとしながら もがりの前で今までの

様子を思い出しながら見つめております。

 町歩調べに始まり、田打ち、代かき、種舞き、鳥追い、

 田廻り、春田うない、田かき、田ならしそして

 早乙女役の小児を太鼓の上に乗せる所作までは

いつもと変わりありません。

もがりの中で行われる所作はまさに決まりごとの繰り返し

なのですが、いよいよ呼び込みが始まると

今までとは雰囲気がガラリと変わるのです。

(「ヨネボウ」と「ヒルマモチ」)

私たちが生活している世界はつねに数々の境界が作られております、

なぜなら境界を作ることで自分達の世界を確実に作り上げることに

なるからなんですね。

もがりの舞台もしっかりと境界というより結界が作られその中で

田遊びが行われているのです。

神を迎えいれるための結界だと理解しておりましたが、

後半の呼び込みを観ているとどうやら、結界の外に向かって

「こっちへ来なさい!」

と呼び込むのです。

(「太郎次」と「安女(やすめ)」)

その呼び込まれるモノはどうみても異界のモノたちのように

思えてならないのです。

異界とは人間が想像をめぐらせる中から生まれるモノでは

ないですか、

異界とは人間が持っている闇の部分のはず、

その異界のモノたちまで招き入れることで、自分達の味方に

する意思が見えてならないのです。

(「暴れ馬(駒)」)

勿論、目指すは五穀豊穣であり、子孫繁栄であるはず、

しかし、内々のやり取りだけでは目的は果たせないと古人たちは

考えたにちがいありません、

昔から面を被って現れるのは、神とあの世の者のはず、

あの世の者たちの力を借りることで五穀豊穣、子孫繁栄が

達成されると考えても不思議はありませんでしょ。

(「獅子舞い」)

そう思って見つめていると、ヒルマモチもヨネボウも、

「太郎次」と「安女(やすめ)」も、あばれ馬(駒)も

獅子舞いも破魔矢も恐ろしいあの世のモノではなく

親しみのあるユーモアに包まれた役として登場させて

いるのではないですかね。

日本人は神に対しても、天変地異を引き起こし、病を流行らせ、

人の心を荒廃させて争いへ駆り立てるのは神の荒霊によると

考え、一方、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面を

和霊によると見分けていたのです。

(「破魔矢」)

この 田遊びの の中にも、その和霊と荒霊を上手に取り入れて

目的を達する仕掛けをつくりだしたのではないでしょうかね。

これは私の勝手な想像なのですが、この行事が延々と千年以上も

続けられている(今年は1021回目なんです)ことの真意のひとつでは

と思えてなりませんでした。

異界の力も取り入れる方法は、お盆の行事や節分、数々の祭りの神楽にも

垣間見られるのです。

こうして今年も田遊びを夢中になって見守りました、

そういえば、すぐ隣の赤塚諏訪神社でも 田遊びが八百年ほど前から

続いておりますので、そちらへも伺ってみたいと思います。

この国は、不思議が沢山詰まった国ですな・・・

2016.02.11記す