今でこそ関東平野は一大穀倉地になりましたが、

遠き昔は、度重なる河川の氾濫で、農家の稲作りは

田植えから収穫までの半年間は神の力に頼るほかに順調に

収穫までたどり着くことが難しかったのです。

利根川が銚子口へと流れを変えることに成功した江戸初期、

それでもひとたび大雨が降れば田植えの終わった田圃は

あっという間に流されることで農家の労力は水の泡となることが

多かったのです。

農家の民が 五穀豊穣を神に願うことは、実際の農作業以上に

大切な祭礼であったのです。

(社務所大広間での「新年の会(年頭式)」から始まる。)

昨年に続いてお訪ねしたのは赤塚の諏訪神社、

もう現在では、どこを見ても住宅とマンションの建ち並ぶ街に

変わってしまったかつての赤塚村、この高台から見下ろす先には

江戸の町民たちの食料を供給できる赤塚田圃が広がっていたといいます。

この赤塚村の鎮守であった諏訪神社には、創建当時、農家によって

古風を失わない「田遊び」という五穀豊穣と子孫繁栄を願う 風習 が

続けられていたのです。

地域の鎮守の祭礼には宮座という組織が存在することで

伝統的な村落祭祀が守られてきたといいます。

氏子さんたちが鎮守の宮に集まって神主にお祓いをしていただき、

お神酒をいただき一同にに会することこそ、神への願い事の叶う

方法だと信じられていたことのあかしでもあるのですね。

宮司や一部の氏子代表だけに任せるのではなく、人が同じ場に

集い合うことこそが神へ直接願い入れられる力になると信じられた

に違いありません。

さて、赤塚の田遊び も期待通り、社務所の大広間に

氏子、来賓の方々が一座となって年頭式が行われておりました。

床の間には田遊びに使用される道具が飾られ、鴨居の上には

田遊約定と役職並びに人名が事細かく記されている。

徳丸の田遊びと同じように、大稲本、小稲本、控人、鍬取、

御神輿、花籠、笛、天狗、太鼓、弓、駒、駒子、獅子、

白杖、金棒、昼飯持、開笠、呼、田行事、高張、警護、総賄まで

実に多くの氏子たちが関わらなければ実施できないことが

実によくわかるのです、

一座の皆にお神酒がと沢庵がふるまわれると式の途中で宮司が現れる、

実に不思議なことに、玄関からではなく居間の本殿に向いた廊下のから

座に入ってくるのは何か意味があるのでしょうか。

宮司のお祓いを受けた所役の氏子たちは、大稲本の発声で謡曲を謡い、

一座はいよいよ田遊びへと座を移すのです。

やがて年頭式が無事終わると、金棒係りの二人の先導で、

宮司は拝殿にて修拔と降神の儀と祝詞奏上を終えると、

拝殿前の もがり 横に安置されていた神輿に祝詞を奏上、

いよいよ祭祀の始まりです。

神輿の前に大稲本、小稲本が立ち、宮太鼓の上に所役が立つと

白扇を広げて

「ひら笠の ひら笠の 早乙女やーい」

と早乙女の呼び込みが行われる。

ここでは早乙女役は子供たちで、手に手に竹竿を持って地面を叩きながら

神輿渡御の道を清めていく。

高張提灯、釈杖を先導で、簓の少年、金棒、はなかご、弓矢、駒、

猿田彦、神主、白杖、太鼓、神輿、笛、太鼓の順で行列が進む。

どうやら行先は、神社から南へすぐの十羅刹堂跡へと向かうらしい、

其処は今は空き地となっており、その入り口にしめ縄が張られていた。

この入り口で猿田彦が大声をあげる、

「あーうん」

と聞こえたが、阿吽のことだろうか、

その空き地に神輿が据えられ、花籠を取付けた槍を神輿の前に構え、

太鼓の音に合せて「えいよー えいよー」と槍が突き立てられる

事に花籠から千代紙がはらはらと舞うのでありますよ、

なんと雅で優雅なことでしょうか。

松明や破魔矢が槍につきかかる、そのたびに太鼓が鳴り響く、

やがて駒に乗った幼児(頭に松竹梅と書かれた帽子)が

幾度となくささげ上げられ、

「いんよー いんよー」の掛け声が響く。

どうやら子孫繁栄の儀式なのかもしれない。

このあと、悪疫、悪霊、害虫をかみ殺すという獅子による

九字の舞が舞われる、なぜか蛇神を想わせる二人獅子舞で

ありました。

ここまで終わると、再び神輿一行は神社目指して戻っていく。

さて、神社に戻ってからいよいよ もがり(舞台)で

田遊び神事が行われるのですが、あまりに見事な神事に

なんだか一回ですべてを見つめることが勿体なくなりましてね。

この先は、来年もう一度お訪ねしようと後ろ髪を引かれながら

神社を後にするのでございました。

二晩見続けた 板橋の田遊び とは日本人の神への願う心の

溢れた神事でありました。

まさに祭りの原点とは田遊びではなかったのかと再認識させられた

祭り旅の途中のことでございました。

これは2015年2月13日の田遊びの見聞録でございます。