「昔々、御荷鉾山(みかぼやま)に住む鬼を弘法大師が退治した時、

 鬼が石を投げ捨てて逃げたという、

 西御荷鉾山と東御荷鉾山の間にある「投石峠」がその石を投げたところで、

 その石が落ちたところを 鬼石と呼び、今も町の地名になっている。」

という伝説が今も語り伝えられています。

そんな伝説に惹かれて、何度もこの鬼石の町を訪ねました。

節分の日は、「福はうち、鬼は内」と掛け声を掛けることも知りましてね、

そして何よりこの町へ足繁く訪ねたのは桜でした。

それも冬に咲く桜です、そのためにこの鬼石を訪ねるのはいつも冬の季節

だったのです。

まだ自動車などという便利な乗り物など無いその昔、中仙道の新町宿から

神流川に沿って街道が開け、信濃への脇街道として鬼石町は諸産物の

集積地として人の流れがあり、やがて明治維新を迎えると養蚕業が発達、

絹取引の中心市場として繁栄の時代を迎えるのです。

その時代の繁栄の跡が今も町の其処此処に残る町、それが鬼石なのです。

先日、羽生の祇園祭を訪ねた折に出会った祭り好きのオヤジさんから

教えられたことがありましてね、

何しろ日本中に祭りと名のつくものは三千とも五千とも云われる中で、

どの祭りを訪ねるかには、祭り情報を持つオヤジさんとの祭り談義が

欠かせない情報収集のひとつなんです。

「鬼石の祭り囃子はすごかったな、昨日今日の習い事とは

 違うぜ、一度聞いてみるといい」

こういう情報は聞き捨てならないのでして、早速上州の山の町へと

向かうのでありますよ。

冬の鬼石は何度も足を運んでおりますが、夏の鬼石は二度目のこと、

連日の真夏の祭り行脚、熊谷を抜けると30℃の表示に涼しく感じるとは、

今までの夏祭りでの37℃とか39℃が異常だったということですよね。

山に向かって辿り着いた上州の西奥の町、温度は28℃、

いやいや、何が助かるといって涼しい夏祭りほど有難いものは

ありませんですな。

以前伺った時は鬼石神社祇園祭でしたが、どうやらこちらも

宗教色を消して、鬼石夏祭り実行委員会による市民祭りに

変わってしまったようですね、これも自主規制の表れなのでしょうか。

なんだか祭りの歴史を消していくようで淋しいですな。

旧街道沿いに並ぶ町立てに沢山の人、人、人、

上町・三杉町・相生町・仲町・本町の各町内の山車が勢ぞろいしている、

以前はこの五ケ町持ち回りによる祭り当番制が決められておりましたが、

今は変わってしまったのでしょうか、

仲町の三叉路に、各町内の祭りを仕切る 進行長が勢ぞろい、

進行長の音頭で手打ちが行われると、いよいよ祭り本番です、

「あんた見かけないけど」

「浅草からきたんだよ」

「この暑い中ご苦労さんだね」

その老人は嬉しそうに話しかけてくれましてね、

子供の頃からこの祭りだけが楽しみなんだと、祭りの醍醐味を

話してくれましてね、

「一番の醍醐味は 新田坂の駆け上がり だ」

その老人の案内で、その坂の上にやってくると、

待ち受ける人・人・人 が、今や遅しとその始まりを息を殺して待ちわびる。

提灯が振られると、大歓声が上がり、町の若集が曳く山車が一気に

急坂を駆け上がってくる、山車の上では祭り囃子がここぞとばかりに鳴り響く、

最初に駆け上がってきた山車は所定の位置に置かれると、

息を切らせている若衆たちは、次に上がってくる山車のために、

警護の役につくのです、

ひとつひとつの動きに無駄がなく、進行長の合図に統一された動作が

きびきびと気持ちがいいですよ。

二番手の山車が、これも一気に坂を駆け上がると、周りを埋めた

町の人々から惜しみない拍手、

こうして、次々に各町内の山車が新田坂を上りきると、祭りは最高潮を

迎えておりました、

そして、その山車の上では、一糸乱れぬ叩き合い、

大太鼓が唸り、締め太鼓が猛烈な速さで打ち鳴らされる、

大き目の鉦が鳴り響く、

「なんてこった」

こんな素晴らしい祭りを知らなかったなんて、

120年間伝え続けられてきた山車祭りは、もう伝統を語ることが

出来るのではないかと、何時までも続く祭囃子に酔いしれています。

山車の後ろをついて歩きながら、祭囃子の音色にうつつを抜かす

祭り行脚の宵でございます。

気がつけば、御荷鉾山が茜色に染まっておりました。

鬼石の町は、冬も夏も素晴らしい・・・

(2016年7月を思い出しながら)