よりによって雨の中やってまいりました金沢八景、

実は雨こそひとり旅の味方、名所や観光地を訪れるのには

雨の日が人にわずらわせられることなく調べ物をするには

最適なのでありましてね、雨靴に大きな傘をさしてのそのそ

と歩き出したのは平潟湾の奥に続くかつての古道であります。

伊藤博文公の別邸で係りの方からお聞きしたのは

この金沢の地を九代二百年に渡って干拓を続け、

見事に泥亀新田を拓いた永島一族の活躍でした。

永島家は代々塩田の製塩で財を築いたのですが、

明治43年、明治政府が製塩地整理法を施行したため

鎌倉時代から続いていた金沢の製塩は廃止となり、

泥亀新田は他人に渡る事になってしまうのです。

その泥亀新田を引き受けたのは、当時金沢に別邸を持っていた

大橋新太郎氏(1863-1944)でした。

彼は古書店から一代で博文館社主にまでなった立志伝中の人物

なのです。

衆議院議員、貴族院議員、大日本麦酒、日本硝子の役員を務める

など当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったのでしょうね、

少し話が脱線してしまいますが、この大橋新太郎が当時政界・財界人の

社交場であった東京芝・紅葉山にあった超高級料亭「紅葉館」で

一人の美女を見初めるのです。

その美女こそ後の新太郎夫人になる須磨子さんなのです、

実はこの須磨子さんこそあの尾崎紅葉が新聞に連載した「金色夜叉」

のモデルになったお宮さんではないかと云われているのです。

何だか週刊誌ネタのようになってきましたが、この紅葉館に

出入りしていた巌谷小波がこの須磨子さんにぞっこん、しかし

途中から現れた大橋新太郎に心変わりしてしまうと、その様子を

傍で見ていた紅葉氏は憤慨して須磨子さんを蹴り飛ばしたとか、

あの「金色夜叉」を読むと、お宮(須磨子)さんに対する紅葉の悪意が

ほとばしっているではないですかね。

さて、このままあの小説のように未完で終われば、大金持ちの富山こと

大橋新太郎とお宮こと須磨子さんは嫌なヤツの代表に祀りあげられたまま

ではないですか、そこでその後の須磨子さんを訪ねてみようと

いうのが今回の旅なんですよ、

随分前置きが永くなりましたが、大正五年に泥亀新田を譲りうけた

大橋新太郎氏はしばしばここ金沢の別邸を訪れていたのでしょう。

大正12年9月1日、あの関東大震災が起きるのです、ここ金沢でも多くの

犠牲者が海岸に打ち上げられたといいます、

(龍華寺)

遺体は検視も手厚く葬ることも出来ず、各町内に仮埋葬されていたのです、

そのことを伝え聞いた大橋夫人須磨子さんは、町内の方々の許しを得て

翌大正13年7月22日これらの火葬されていた遺体を龍華寺に埋葬された

といいます。

それから13年後の昭和10年9月1日、ここ龍華寺の境内に大きな供養費が

建てられているのです。また此処からさらに道を登りつめると称名寺に

突き当たる、かの金沢八景の「称名寺の晩鐘」と云われた鎌倉時代から

続く釣鐘のあるお寺ですが、やはり関東大震災で鐘楼が崩壊してしまった

のです、その鐘楼を再建し寄進したのも須磨子夫人であったのです。

もしかしたら、金に目が眩んだ女として生き続けることなど、

お宮さんいや須磨子さんはとても我慢できなかったのかも

しれませんね、

熱海の海岸の月夜の晩から開放されるまでには、お宮さんには

お宮さんの葛藤があったのでしょうね、

龍華寺の庭園では、京都仁和寺から移植された御室桜がすっかり花を落とし

この金沢の花に特化した牡丹が雨の中で咲き競っておりました。

須磨子さんの絶世の美女ぶりを後に長谷川時雨が「大橋須磨子」の表題で

書き残しております。

興味ある方は一読を。

金沢八景はどうしてどうして面白くも人の人生を垣間見る

ところでございますよ。

(2017年5月記す)