町の西側を旧江戸川が流れ、東の境は海に接していた、

その漁師町を西から東へ狭い川が流れている、

町の名は「浦安」、

その町の中を流れる川を挟んで北側を猫実(ねこざね)、

南側を堀江と呼び、せまい境川にはベカ舟と呼ばれる

底の平らな小さな舟がびっしりとつながれていた。

この西の境を流れる旧江戸川を遡るとやがて関宿の先で利根川に

合流する、利根川の向こう側には境河岸があった、川がまだ生き物だった

八十年も昔のことである、

ひとりの若者、それは五百年も続いていた旧家の長男であった が

東京という街でなんとしても一旗あげるという意思の表れであるように

まなじりを決してその旧態依然とした町を飛び出したのです、

その境河岸が蒸気船によって東京深川の高橋と直結していたことが

大いに影響したに違いなく、

その蒸気船に揺られて、江戸川を下り、行徳から小名木川を昇り

東京目指していた、それこそが私の父の若き日の姿だった。

江戸川が物資や人の流れを作り出していた同じ頃、父と同じ歳の若者が

この江戸川を下って浦安の町にやってきたのです、

山本周五郎、本名清水三十六、明治36年生まれを表す名の青年は、

この浦安の町で三年間を過ごすのです。

その時の浦安での生活の中で味わったことを後に

「青べか物語」

として世に問うのです。

父は東京に出て20年後、商売も軌道にのり高橋生まれの母とのあいだに

五人の子供が生まれた、しかし、ひとりは一歳を待たずに病死、

長男は病弱で、医者から空気の良いところへ越したほうがいい

との助言で、東京から当時は松の木に囲まれた市川という町へ

越してきたのでした、

ある日、父は末っ子であった私に、親類の家まで届け物をするようにと

言い残して仕事先へ出かけてしまった、

その行き先は、浦安という町だった、江戸川を行き来する蒸気船で生活していた

父の時代には、この蒸気船が止まる河岸には境の親戚が大勢居たのです、

あれは昭和32年の夏、母からその風呂敷包みと往復のバス代をもらい

本八幡の駅から出る浦安行のバスにたったひとりで乗った。

もう江戸川を上り下りする蒸気船はとうの昔に廃止され、浦安への交通手段は

唯一バス便しかなかったのです。

砂利道を走るバスの窓は開け放たれており、前を走るトラックが巻き上げる砂埃は

容赦なく窓から襲い掛かってくる、

何時の間にか頭は真っ白になっていた、

わずか一時間ほどの旅とはいえないものだったが、

初めて独りで訪ねた町は、はるか昔のまま水の中に浮かんでいるように

感じたのでした。

「青べか物語」の最終章で山本周五郎は三十年後に再び訪ねた浦安の町を回顧する

場面があるのですが、私が始めて訪ねた浦安の町は丁度その頃と重なって

いたのです、

この国が高度成長へ向かってガムシャラに動き始めた時代、

彼方此方に工場が建設され、廃液は川に海に流され続け、豊だった海の生物は

壊滅状態にさらされた、その海を生業にしていた浦安の漁師たちは

怒りを体中でぶつけ、抗議を続けたが、巨大な利権の前に消えていくしか

なかった、やがて漁業権を放棄した町は、海を埋め立て、最新の住宅が建ち並び

デイズニーランドが名を売る街へと変貌してしまうのです。

あれから五十年の時が過ぎ、父も母も、山本周五郎もみないなくなりました、

その五十年後の浦安の町を訪ねたのは四年に一度ずつ続けられていた浦安三社例大祭の

時でした、まったく未来の街に変貌している浦安に、その祭りの間だけあの頃の

人々の想いが立ち現れていたのです。

祭りには時を乗り越える力があったのです、

老人も、若い衆も、あの豊だったこの町を知らない子供達まで、

不思議な程あの頃の浦安人の顔に変わっていたんですよ。

あれからまた四年の月日が巡ってきました、

久し振りに境川の辺りを歩いています、

勿論、親戚のおじさんも、初めてのお使いを頼んだ父ももうおりませんが

目の前の濁った川の流れだけは同じ気がしている不思議、

全てがめまぐるしく変わり続ける中で、唯一川の流れだけは

変わらずにいたのです。

その川に沿った両岸にまだ祭りまでには間があるにもかかわらず、

すでに祭り支度が始まっていた。

それは、昔の浦安を浮かび上がらせるためのみんなの総意のような気がするのです。

四年に一度ずつ巡ってくる祭りとは、変わらぬようでその中で祭りを彩る人々は

確実に交代していくのです、

つくづく祭りは生き物だと思い知らされた旅の途中のことです。