旅が日常のような日々の中で、どうしても

もう一度訪ねたくなる処があるもので、

それは大自然の美しさであったり、

神がいるに違いないと感じた山であったり、

母の懐かしさを感じた波の打ち寄せる磯部であったりする、

そして全てが思い出に変わっていく中で、

もう一度逢いたいと想うのは、いつも人との出逢いなのです。

まぶしい夏の光を浴びてたどり着いたのは

緑の森に覆われた祈りの屋代です。

一度目はようやく紅葉が彩を重ね始め、釈迦ケ岳から

吹き降ろす風に冬の顔を見つけた頃でした。

誰もいないと思っていたその集落で、元気に飛び回る

子供達の姿に、昔の自分を重ねていたのかもしれませんが、

一本の道があれば、そこはたちまち子供等の

格好の遊び場に変わってしまうのです。

何も無かった私達の子供の時代、

食べ終わった後の缶詰の空き缶も、

一本の縄も、ゴムひもも、

真っ直ぐに伸びた道端の樹でさえ、

みんな遊びの道具に早代わりしたものでした。

子供は遊びの天才、何も無ければ必ず何処からか

何かを探し出してきて、それを道具に遊びを

作り出すんです。

ここで出逢った三人の子供等は、

熊の話をしていたかと思うと

猛烈な速さであっという間に林の中に駆けていき

その姿は見えなくともその林の中から大きな声で

話す言葉だけが聞こえてくるのです。

それはまるで小鳥達のさえずりのようにね。

二度目の訪問は、田植えの終わった田圃の水面に釈迦が岳が

浮かび初夏の風が気持ちのいい日です。

この寺山集落を抱え込むような立派な観音堂は、

1200年のこころの拠り所として今もこの地の静寂の中にあった。

あの時の地蔵菩薩も、微笑をたたえた石仏も変わることなく

そこにあった。

何も変わらないことの重さが此処にはある。

お参りを済ませると、あの子供達と出逢った辻まで歩いてみた。

どうやら何処かに遊びに行っているのかもしれない。

小さな流れの傍にいつかの子等とは違う子がしゃがみこんで

さかんに網をその流れに差し入れている。

声を掛けるか躊躇したが、見ているだけというのも

なにやら不審者のようで、思い切って声をかけた。

「何が捕れるんだい」

「うん、カエルを捕まえるんだ」

二人で一生懸命カエルを探しました。

「いたぞ! ほらその草の陰だよ」

ほとんど草と同じ色の緑のカエルが流れに逆らうように

手足を踏ん張っているんです。

其の子は慎重に狙いを澄ませると一気に網を被せました。

「どうだ、掴まえたか」

網を開いて中身をそっと探しましたが、泥と草ばかりで

あの緑のカエルは何処にもおりませんでした。

「残念だったね」

「うん、何がいけなかったのかな」

「もしかしたら網を入れる角度が違うのかもしれないな

 今度はその角度を工夫してみるとうまくいくかもしれないよ」

其の子は何度も頷いてくれましてね。

子供は遊びの中から沢山のことを覚え、身につけていくんですね。

立ち上がると其の子は私の顔を見上げ

「おじさん、もう帰るの?」

「うん、おじさんはこれからまた旅に行くんだ、

もしこの次逢えたら、君が捕まえたカエルを見せておくれ」

こうして二度目の寺山は再び忘れられない出逢いになりました。

「出逢い」とは出かけていかないと逢えない

ということなんですよね・・・

栃木 寺山観音にて