田山花袋著『秩父の山裾』の中に

こんな一節がある、

・・・「小川は賑かですとも何しろ、織物の市が立ちますからね。」

   「越生よりもぐっと好いね。」

   「とても比べものになりはしません。こゝらでは一番でさ。」

   かう馬に鞭うちつゝ御者は言つた。

大正7年(1918年)4月8日、

東上線を坂戸で降りた花袋親子は徒歩と乗合馬車で

越生、小川、寄居、長瀞、鬼石町までの旅の途中のことでした。

越生も、小川も、寄居、長瀞、鬼石町も

みんなこの目で確かめてきた町ばかりなんです、

「越生は小川よりそんなに劣っていたかな・・・」

時代はあれから100年近くも過ぎた現代です、

もう一度、越生を確かめに行ってみよう、

まあ、アタシの旅などは、大抵こんなきっかけで

始まることがほとんどなんですがね。

二月最後一日、とはいえ四年に一度の閏年、なんだか一日得した

気分で降り立ったのは越生駅、

春とは遠いまるで寒中のような寒さのなか、

三寒四温のはずが、たった一日で真冬に逆戻り、冷たい風に

吹かれながらやってまいりました梅の里、

奥武蔵の山里は、梅の香りに包まれているわりには

閑散としており、100年前を彷彿させるに十分な風情が

漂っておりましてね。

始まったばかりの越生の梅祭りもまだまだ肝心の梅の花が

ちらほら、最近の皆さんは、的確に情報を把握しているので、

梅見頃はまだ当分先だと判っているんですね。

思い立ったらすぐに飛び出してくるフーテンオヤジなどは

「ああ、まだ二分咲きか・・・」

なんて呟くばかりでございますよ。

しかし、誰も居ないということは、静謐な刻を堪能できるということでも

あるのでして、まだ彼方此方に残るなごり雪など踏みしめながら

梅の風情を堪能するのでありますよ。

(「魁雪」)

越生といえば、あの江戸城を築いた太田道灌のふるさとだとか、

道灌の父道真(どうしん)が、大宰府天満宮を分祀したことが

越生の梅の始まりだと、暇をもてあましていた老人が教えてくださったのは

梅園神社、昔は小杉天満宮と言ったとか、

なるほど、ここにも菅原道真公が係っていたんですね、

それにしても、道灌の父の名が道真というのも、縁を感じますね、

太田道真は同じ名の道真公を越辺(おっぺ)川の辺に祀ったことが

600年後の今に、梅の名所となって続いていることなど

夢にも思わなかったのではないでしょうかね。

(源頼朝が家臣の児玉雲太夫に命じて建立させた『最勝寺』)

その老人は「魁雪」という名の梅の古木の前に案内して

「これが、太田道真が植えたという梅の木ですよ」

それは、疑いを持たせぬほどに古色蒼然とした佇まいで

見事に今年も花を咲かせているではないですか、

京都の北野天満宮には、梅ではなく魁(さきがけ)桜という

早咲きの桜があるのですが、此処越生の山里では、魁の梅が

早々と咲いているのですよ。

越生の梅は、花を見るより、その梅の実を採ることを目的に

数百年の歴史を刻んできたのだとか、

小高い丘に登って見渡せば、奥武蔵の丘陵地に隠れ里のように

梅と共に生きてきたこの地の人々の生活が忍ばれるのです。

昔ながらの塩だけで漬けた梅干をいただく、

顔がくしゃくしゃになるほど酸っぱいのに、

なんだか子供の頃の味を思い出して思わず頷いていた

旅の途中のことでございます。

大田道真は家督を道灌に譲るとここ越生に居館「自得軒」を構え

悠々自適の暮らしぶりでした。

文明18年(1486年)6月、道灌は友人万里集九を伴い父の元を訪ねている、

自得軒を去った一ヵ月後、伊勢原の上杉定正館で謀殺されてしまう。

此処自得軒が父道真との最後の対面の場になってしまったのです。

今は、その跡に建康寺が密やかに残されている。