毎日見慣れているものには完成した形がある、

しかし、どんなに日常とかけ離れた形でも

やがて意識の中から消え去っていく。

ある日、突然今まであったその場所から

例えば店であったり、立木であったり、花であったり

と、意識の外側で存在していたものは、この世から

消え去っても、気付かないものなのですね。

当たり前のものとは、あって当たり前、

無くても当たり前という全く相反する事柄であるにも

係らず、消えてしまったことの意味の前では

同価値なのでしょうか・・・

例えば、いよいよこれが最後の運行です とアナウンスされると

何処からとも無く、人が集まり、

「止めるのは惜しい」

とばかり、自分の人生との接点を探し出し

中には、記憶に留めるだけに終わらず、

カメラを持って群れをなすのです。

「そんなに惜しいのなら

普段から無くさない方法を考えればいいじゃないか」

と思うのですが、日常の中に埋没したものや事柄は、

誰も気づこうとしないということなのですかね。

今、東京では何も無かった空間に巨大な煙突状のモノが

立ち上がっている。

消えていく多くのものに代わって日に日にその存在感を

表すその塔はもう誰の目にも無視できないところまでに

姿を現している、

意識の中では未完成でありながら存在感を強めていく意味では

すでに完成の域に達しているのかもしれない。

いつもの浅草散歩の途中で、一枚の貼り紙を見る、

「・・・永い間、皆様のご愛顧に

 こころより感謝申し上げます。店主」

ああまた、ひとつこの世から消えていくものへの

愛惜の念 抑えがたし。

消えていくものへの惜別の想いと、

新たに現れてくるものへの希望、

どちらが大切かと比べるべきことではないのだろう、

過去から未来への狭間でしか生きることのできない現実は

こころの中で、ひとつひとつ整理をしながら最後を迎えるしか

方法はないのかもしれない。

過ぎ去るものはいつでもいとおしく想い

やってくるものヘは寛大なこころで受け入れる

それがこの国で生きていく一番の精神の安定をもたらすのだろう。