日本には『間合い』という不思議な言葉があります。

辞書を引けば、

(1)物と物とのへだたり

(2)動作をするのに適当な時機。ころあい。また、あいま。ひま。

剣道では一足一刀の間合というのがあるのですが、構えた時に、

一歩踏み込めば打突きでき、一歩退けば相手の打突きを外せる距離を言うのです、

しかし、その距離が何mとか何cmとか計れるものではなく

人間の持っている感性の範疇で判断するもので、何でもコンピューターで

答えが出せると思っている現代の中で、非常に曖昧なものの代表なのです。

『間合い』は何も剣道やボクシングの試合だけではなく、

写真を写すにもその『間合い』がとても大切なことなのですね、

人を写すにも、相手とのどの位置に立ったら緊張させないか、

また、素敵な表情を引き出せるか、また、相手の呼吸をどう処理できるか

全てに『間合い』が係ってくるのです。

また、この国には素晴らしい景色がいたるところにあるのですが、

その景色のどの位置に立ったらいいか、それを決めるのは写真家の持っている

『間合い』の獲り方で決まるのです。

関東平野に住まう者には秋の晴れ間に心が晴れ晴れとする瞬間に

立ち会えることがあります。

それは、西に富士、東に筑波の麗しい姿を見つけられた時なのではないでしょうか、

特に秋の夕暮れに出会う夕焼け富士山は思わず手を合わせてしまうほど

神々しい姿で西の空にクッキリ現れます。

その富士とは全く対照的に、平野の真ん中にすっくと立ち上がる筑波山は

その姿を求めていつも視界の片隅に留めながら旅をする楽しみでもあるのです。

「筑波の双峰を眺めたいな」

すっかり秋の気配の穏やかな一日、爽快な青空の下その筑波を求めて旅に出た、

遠すぎてもダメ、近すぎても美しい神の山の姿は現れない、

微妙な「間合い」を詰めていくとある川の土手の上に佇んでおりました。

「あっ、筑波はこの広がる大地が支えてこそ

 その神々しさが浮き立っていたんだよ」

その土手の上に佇んでみて初めて見えてくるものがあるのですね、

この大地は暴れ川の異名も持つ川の流れと悠久の刻が豊穣な大地を

作り上げてきたということを、

その大地をそこに生きる人々が、

果てしない勇気と根気で作り上げてきたという歴史を

人間の能力では如何とも出来ぬ自然との係わり合いの中で

神を信ずる信仰が生まれたことを、

もし、これが青々と芽生えた春の頃であったら、

気づかなかったかもしれない

辺り一面色を消した光景だからこそ、

大地の営みへ心が向いたのでしょう。

常陸野の豊穣な大地こそ、この人々の永遠を支えるみなもとであることを

ひしひしと感じておりました。

これからの旅は、何を感じ、何を見つめるのでしょうか、

筑波山麓にて