さすがに高原の街は涼しい、

この涼しさはわざわざ訪ねてくる価値があったのです、

時代はいつも同じ価値観でいるとは限らないことは

都会の生活でイヤというほど味わってまいりました、

けれど、この高原の街だけは別世界と思って通い続けておりましたが

やはり変化が現れてきたのです、

いつの時代に比べるかで価値観などは変化して当たり前ですが、

明らかにこの街へやってくる人の数が減り続けているのです、

高原の中に人工的に作り上げられた避暑地ですが、

東京やその周辺の都市の夏の生活に、もうクーラーは当たり前に

なっているのです、

クーラーのスイッチを入れただけで、たちまち高原の涼しさが

手に入るのですから、なにもわざわざはるばる高原の街まで

やってこなくても涼しさは簡単に手に入ることが当たり前の時代

なんですね。

わざわざ交通費を使い、高いガソリン代を払って渋滞に巻き込まれて

山の上の都会の街へやってくる意味に陰りが出てきたということ

なんでしょうね。

合理的で、経済優先の考え方が染み込んでしまった国民が、手軽で

簡単に手に入ることを優先することには、誰も意見を差し挟む

ことは意味のないことのように思われても仕方ないのかもしれませんね。

考えてみれば、この高原の街に、都会人が押し寄せるようになって、

「これは商売になる」と考えたやはり都会人が、この街に店を次々に

出店させて、その都会人の購買欲を刺激するという相乗効果が

この街を繁栄させてきたことは明白な事実なんです。

しかし、その都会人が、涼しさを求めてやって来なくなれば、

都会の出張所のようなこの町から店が次々に消えていくのは

時間の問題かもしれませんね。

静かな避暑地、そう昔のこの街の姿を取り戻し始めている

のかもしれませんね、

こうして、昔を忍びながら歩いていると、確かに涼しい風が

頬を撫ぜていきます、都会との明らかな違いは、そう空の色、

鳥の鳴き声、ほらホトトギスがすぐそこの木の上で気持ちよさそうに

鳴いているんです。

都会ではアブラゼミがジージーと鳴き始めておりますが、

こちらでは、もうヒグラシが切ない鳴き声をあげています。

涼しさだけでは決められない価値観が此処にはやっぱり

あったのです。

いつもの珈琲店に向かう、此処はクーラー無しで、窓から

忍び込んでくる高原の風を感じながら読書するには一番相応しい

店で、必ず訪ねる店なんです、

昨年も美味しい珈琲を飲んでいたのに、一年後は、店じまい

してしまいました。

どんなに、外国のような雰囲気をかもし出した街であっても、

経済原則の前ではいかんともしようの無いのが現実なんですね、

そんな遠い昔のノスタルジーを感じている爺のうわごとのような願いなど

簡単に消し飛んでしまうのが、経済大国日本の真の姿だったのですね。

涼しさに、静かさを加えたこの高原の街にどんな未来が待っているのでしょうか、

この街の栄える前に、避暑地であった霧積の地は、今は大自然の中に

見事に姿を隠してしまいました、三十年後、五十年後、

自然の中に消えた避暑地は、ひとの語り草の中に生きるだけに

なるのでしょうか、

その頃はアタシはもうこの世の人ではなくなっているでしょうがね・・・