「日本人が「おまつり」を大切にするのはどうしてだろう」

そんな素朴な疑問から始まった祭り行脚の旅は、

三年もすれば飽きて次の興味に移るはずなのに、

飽きるどころかますますのめり込んでいくのです。

尊敬する柳田国男先生は

「まつり」という言葉は「まつろう」と同義語で

 尊い方のおそばにいて仕え奉るという意味だ」

と説いているのです。

尊い方とはすなわち神、その神の仰せがあれば皆承り、

思し召しのままに勤仕しようという態度こそが「まつり」

そのもので、つまりはこころから神を おもてなし する

ためにおこなう神事なのですよ。

それも遠くから敬意を表するだけではなく、もっと積極的に

お傍にお仕えして神の意に応えようとする姿勢こそが

「まつり」を行う意味に違いないと思えるのです。

「まつり」を実際に行うのは日本人なんです、

人間が思いつくおもてなし方ちは、

神の傍に寄り添うには、心身ともに清らかでなくてはならないと

考えるのが日本人、もし「まつり」の奉仕者にケガレがあれば

神は降臨されないと考えるのも日本人、

日常とは異なる精進潔斎をするのも神をもてなす態度の現われ

なのです。

その神をもてなすには、日本人が食事をするように最上の食物を

お供えし、神は夜の闇の中からやってくると信じていた日本人は

大昔なら松明を点しし、今なら提灯に灯りを点して歓迎の意を

示すのです。

次から次とおもてなしが続きます、

「神が喜ばれることをしなければ」

それは、日本人が喜ぶことと同じではないかと考えるのです。

そこから生まれたのが、神楽と舞い、

今でも、「まつり」に奉納されるのは神楽であり、神のお言葉を受ける巫女舞い

が演じられるのです。

やがて、神輿という神の乗り物を煌びやかに飾り、どうぞお乗りくださいと

神輿にお乗りいただいた神を、日本人は最高のもてなしと肩に担いで

町内を練り歩くという形を思いついたのでしょう。

日本中の「まつり」を此の目で、耳で、肌で、此の足で感じてきますと

どうやら日本人ほど信心深い国民は居ないのではないかと思えてしまうのですよ。

風土によって多少の表現の違いはあっても、その精神の原理は変わることがない

というのが、長年祭りを見続けてきた一番の感慨なんですね。

日本人の考え方を決定しているのは、祭りを通して身に着けた精神文化そのもの

なんです。

日本人が当たり前に思っている、人をもてなす心とは、

祭りのなかにきちんと集約されていることが理解できるに違いありませんよ。

また、長々と「まつり」を語ってしまいました、これはあくまでもアタシ個人の

感想ですので、お許しくださいね。

さてと、本日はかの平将門が此の国を揺るがした坂東の地に、

千年の永きに渡って信仰の対象として今も行き続けている

一言主神社の秋季例大祭にお邪魔いたしました。

昨年までは、例大祭の中で奉納行事として行われていた綱火、雅楽、獅子舞神楽が、

奉祝祭として別の日に行われることに変わってしまいましてね。

なんだか、神事というよりイベント化されたようで、有難さも半減している気が

いたしましたね。

(奉納 巫女舞)

かつては境内を人が埋め尽くしたという話を聞いておりましたので、

いざやってくると、神事とかけ離れてしまったことを氏子のみなさんは

敏感に感じ取ってしまったのでしょうか、観客は数えるほど、

よさこいも奉納行事ということで、張り切って踊っておりましたが、

観客のいない広場で少し寂しい気がいたしましたね。

なにしろ奉納行事が少ないのか、次の行事まで待ち時間が一時間から

一時間半もあるので、折角集まってくれた人々もしびれを切らして

帰ってしまうのです。

(奉納 獅子舞神楽)

アタシはどうしても見たかった奉納 獅子舞神楽をじっと待ち続けました、

三時間後、その大津戸芸能保存会の皆さんが登場したときは

ベンチにお尻が根を張ってしまったようで、よろよろと近づくのが

やっとでした。

実は、太鼓を載せた櫓を何と呼んでいるのかを確かめたかったのです。

以前、山梨の八朔祭りで目にした神楽殿と同じ形式なので、その名を

長老に直にお尋ねすると、

「オレたちは神楽殿と呼んでるよ」

と明快な答えでした。

お囃子が鳴り響くと、小さな子供を抱いた若い母親が集まってきます。

獅子に頭をガブリとやってもらうと無病息災、元気に育つと信じられて

いるのです。

中には獅子の恐ろしい顔に泣き出す児もいて、

ああ、今でも訳もわからず怖いものがあるという精神文化が残されている

ことになんだかとても嬉しかったですね、

すると、おしゃまな女の子が登場して、

「おじさん、あの中は人間が入ってるんでしょ」

と身も蓋もない質問に、

「いや、あの中には神様がおられるのだよ」

さて信じてくれたかどうかはわかりませんでしたが、

その後は、少女は恐々と獅子頭に手を添えておりました。

此の世の中には、なんでも白日の下に晒せばいいという

ことではないのですよ。

日本人はね、目の前にあっても、それは無いものとして

理解する精神文化を持っているののですよ、

ほら、人形浄瑠璃や歌舞伎の舞台で黒子が出ていても

それは無いものとしているじゃないですか、

日本人の精神を造って来たのは、「まつり」があればこそ

だとつくづく感じていた祭り旅の途中でございます。

(2016年9月記す)