梅一色に染まってしまった山郷に春の風が心地よい、

「もう春ですよ」

とだれかれとなく声を掛けたくなる気分です。

そんな梅ばかりの山郷にも、きちっとといのちの花は咲いています。

まあ、花とおじさんの取り合わせというのも気持ちの悪いでしょうが

中には、心優しい人ネ なんて言ってくださる女人がいるやも知れぬ

と儚い望みを胸に花の郷を彷徨ってみようという魂胆なのですよ。

 「春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹」

   春さればまづ三枝(サキサク)の幸くあらば

    後にも逢はむ な恋ひそ吾妹  
           柿本人麻呂

  「父母毛 表者奈佐我利 三枝之

    中尓乎祢牟登 愛久 志我可多良倍婆」

   父母も、うへはなさがり、さきくさの 

    中にを寝むと 愛しく しが語らへば

                  山上憶良

万葉の時代、春になるとまず咲く花を さきさく さきくさ

と表現していますが、確かなことはわかりませんが、多分、

三椏の花ではないかと思われますが、人麻呂さんにも憶良さんにも

お逢いして尋ねるわけにもまいりませんので、ここでは

三椏の花ということで話を進めましょう。

実はこの三椏、勿論、その木の皮は和紙の原料になることは知られて

おりますが、その香りについてはあまり語られていないのです。

しかし梅の香が楚々とした風情なら、

三椏の香はなにやら熟女の艶かしさを感じさせる濃い口の香りなんです。

万葉人は三椏を歌っているのですが、もしかしたらこの強烈な香りに

恋心を刺激されていたのではないですかね。

その濃厚な香りから逃れるように山の辺の道を行けば、

何処からともなく梅の香り、

日本人にはやはり微かに香るほうがこころに留まるのでしょうね、

枝垂れ梅の下で思わず足が止まる。

  春の夜の 闇はあやなし 梅の花

   色こそ見えね 香やは隠るる

        (古今和歌集 凡河内躬恒)

  梅花遠ク薫ルといへる心をよみ侍ける     

  心あらばとはましものを梅が香に

    たが里よりかにほひ来つらん

          源俊頼朝臣

やはり、今も昔も香りは想像力を刺激するものなのですね。

まるで蝶が飛んできたのかと一瞬、

息を止めてじっと見入ってしまいました。

玄界灘を挟んで、北九州や対馬に咲く玄海躑躅です。

先日、安行の植木屋さんの庭に咲いていたのは

カラムラサ色でしたが純白の花もあるのですね。

ほんとうに儚げな花です。

足元に目を移せば、もう終わってしまっていたと思っていた

福寿草の可憐な姿に思わず顔がほころんでしまいます。

そして同じく春を告げる花 節分草です、

日々の生活に追われているうちに、春告花は密やかに咲いて

散っていくのです。

見落とした人にはその姿さえ知られることもなく・・・

こういう旅をきっと 道草というのでしょうね、

花はただそこにあるだけで麗しいですね。