行雲流水とは

空行く雲や流れる水のように、深く物事に執着しないで

自然の成り行きに任せて行動することの例えですが

果たして執着心の塊のようなアタシには絵にかいた餅みたいな

ものかもしれませんですな。

柳田國男先生は日本人の世界観として「ハレとケ」を区別している、

ハレ(霽れ)とは儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、

ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。

日本人の生活は、毎日同じことの繰り返しで成り立っているんですね、

朝起きて仕事場に向かい、仕事が終われば家に帰り、食事をして眠る、

同じことの繰り返しがやがて心を閉鎖的してしまい、何もやる気が無く

なってしまったりする。

そこで必要になるのが、ハレの思想なんです、日常の中に特別なことを

作り出すのです、

その代表が祭りであったのです。

祭りには人々の気分を変える力があるのですね。

しかし、現代人はどうでしょうか、昔なら正月くらいしか着ることのなかった

ハレ着を日常の中で着ていますよね、

食事も特別なことなど無くてもいつでも食べたいものが食べられます、

それでも、その特別なモノが当たり前になってくると

やはり人間はマンネリに弱いらしく、いつも心の飢餓状態に置かれて

しまうのですね。

人間の欲望には限りがないのです、

それでは祭りにはもう意味が無いのかというと、それは別の話でしてね、

確かに今の物に溢れた子供たちを祭りに連れていっても、あまり喜びません、

露店で売られているモノより日常の方がもっと楽しくて、美味しいモノが

手に入ってしまうのです。

TVで何でも見ることができる、スマフォを手にしていれば何でもわかる

と思ってしまう子供や大人が現れても不思議はありませんよね、

ハレとケの区別が無くなると何が起こるのか・・・

物事の区別をする能力が失われていくのです、

喜びも感じなくなり、満足感も失われた人間に何が残るのでしょうか、

アタシは毎日のように祭りを訪ね歩いています、だからと言って毎日が「ハレ」

ばかりかというとそれは違います。

一日の中で「ケ」の日常を済ませると、「ハレ」の祭りの場に身を置いてみるのです、

昔なら一年に一度の祭りが「ハレ」の楽しみだったでしょうが、

一日の中にハレとケを作り出してみると、それは不思議な気分になるのですよ。

祭りには同じものは無いのです、なぜこの祭りを行うのか、意味もわからないのに

気持ちが浮き上がってしまうことがしばしば起きるのです。

それは現代人が全てを理屈で理解しようとする範疇に、祭りは入らないという

事実なんですね。

人間の知識などたかが知れたものなんです、人間の想像力を超えた何者かの存在を

感じることができるのが 祭りなんですよ。

昨日までどっぷりと祭りに浸かっておりました、

まるでふわふわと宙を舞っている気分のまま空を眺めると、

もう秋色の雲が流れていることに気付かされるのです、

風が頬を撫ぜていく、目に見えないはずの風が水面を渡るとき

はっきりとその存在を感じさせてくれるのです。

目の前の光景はハレなのだろうか、それともケなのだろうか、

いや、そんなことを考える必要などないのですね、

深く物事に執着することなく、自然の成り行きに任せて生きていけたら

果たして、欲望の塊みたいなアタシにそんな境地が開かれるだろうか、

海人達の祭りを見終わったまま、広く大きい空を眺めながら

残された人生を想う旅の途中です。

2015.09.21記す。