日本中、どこの町でも、どこの村でも、そしてどんなに
小さな集落でも年に一度は祭りを行っているのです。
毎年繰り返される祭りが何のために行うのかはうまく
説明できなくても、みんなその意味は判っているのです。
なぜなら、古来から続いている祭りを、よほど理由、たとえば
大地震や、水害、火事、があろうとも祭りを途絶えさせることなど
しないからなんです。
尊い方を祀ることは、その地震や災害から身を守るために
効果があると信じてきたのです。
その尊い方が力を弱めないように、一年一度おもてなしをするのです、
神社に祀られているその尊い方に供物を奉じ、歌舞音曲をささげ、
ある時は神輿にお乗りいただき、自分たちの住む町の中にまで
巡っていただく、それこそが祭りの本質なんです。
多分、大昔は自分たちの狭い集落ごとに祭りが行われていたのでしょう、
しかし、信仰を一緒にしない人々が、その祭りを見に来ることが
起こり始めたのです。
特に町場では、傍観者と呼ぶ見物人がどんどん増え始めると、
祭りの様相が変わり始めるのです。
祭りを行う人々は勿論のこと、見物人を意識し始めるのです、
自分たちだけの祭りなら、衣装に凝ることもなかったはず、
見ている人たちの目を意識し始めると、祭り衣装は派手やかになり、
尊い方の乗り物は最初は白馬の背に御幣を立ててそこへ下りてきて
いただいたものが、やがて神輿になり、それも金銀で飾り立てる
ほどになっていったのでしょうね。
さらに、山車が次々に作られ、それぞれの衣装をまとった人々が
行列を作って町を巡行し始めるのです、
御神幸と呼ばれ、祭りは祭礼と名をかえたのですね。
祭とは、その時代を生きている人々がその時代に合った
やり方で次の世代へと申し送りしながら続いてきたのですが、
いくら古老が
「そんなやり方はダメだ」
意見しても、祭りの形態は変わっていくものなんです、
その変わり方も、悪くなるように変えたいと思う者は
いないのに、いつのまにか、変わってしまうという意味で
祭りも生き物なんですね、
もう都会の祭りでは、いかに町内神輿を作ろうとも、
自分たちの町内では担げないという事実の前では、
他所の人に応援を頼まざるを得ないのです。
たとえば今まで神輿担ぎの音頭は
「ワッショイ ワッショイ!」だったものが、他所からの応援隊が
もっと威勢をつけろと、「ソイヤ ソイヤ!」と始めれば
いつのまにか「ソイヤ ソイヤ!」が当たり前になってしまうのです。
祭半纏にしても、町内統一の半纏が、他所からの応援が入ると
もう転々バラバラ、もうどこの町内の祭りか判らなくなってしまうのは
時間の問題ですね、それでも、祭りをやめることができないのです、
祭りは生き物という意味が何度も問われてくるでしょう。
それでも祭りは、人々のこころを鼓舞し続けるのですね。
昔からの仕来りと伝統を残す努力を続けながら・・・。
さてと、本日は江戸の祭りの代表、根津神社の御祭禮です、
大人神輿は今年も勢いは失われておりませんですよ、
しかし、先日伊香保の町で子供たちを祭りの中心に据えて
大人たちが守るという祭りを見てまいりました。
東京の祭りは子供たちを大切にしているだろうか、
とても気になり始めました、子供たちは町の未来なんですものね。
元気な子供神輿が路地から現れました、
大人たちが懸命に元気を注入しているではないですか、
少しホッといたしました、
次の世代へのバトンタッチが確実に行われていることにね。
風流の 根津弥生音頭の行列も健在です。
安心して、舞殿へかけつけましょう、
そうあの松本源之助社中による奉納里神楽「三座ノ舞」が
始まる時間です。
昨年もこの同じ場所でじっと「三座ノ舞」に魅入っておりました。
その時に疑問が湧いてきましてね、
「三座ノ舞」は正味15分あるかないかの神楽としては短いもの
なんです、
そのたった15分間のために一年を待っていたんです、
つまり 祭りとはおよそ割に合わないものの代表なんです、
でも、こうしてここに佇んでいるというのは、祭りの持つ力
なんでしょうね。
大拍子、太鼓、そして笛の音が響くと「翁の舞」が始まりました。
手には鈴と刀、鈴は霊を祓い、刀は邪気を祓うという意味でしょうか、
そう無言劇は、見ている者の想像力を刺激し続けるのです。
どうも「三筒男」の上筒男神の所作と重なってしまいました。
翁が舞台から姿を隠すと、次なる神 猿田彦神が
手に鉾を持って登場です、
昨年は、もしかしたら翁の舞人が衣装と面を早変わりして
登場したのかと一瞬見誤ったのですが、どうやら、
すべて別人の舞のようです。
歌舞伎役者の早変わりとは違いました、それに背の高さも
明らかに別人、
疑問が一年ぶりに溶けると次なる疑問が・・・
「なんで神様はみんな長髪なんだろうか」
特に猿田彦神は祭りの御神幸では先頭を歩くのですが、
こんなに長髪ではありませんですよ、
里神楽の中でも「三座ノ舞」の神々はどうして
長髪なんでしょうか、
見れば見るほど神とは恐ろしげではありませんか。
最後は「山神の舞」です、
やはり手に鈴としゃもじですね、
鈴は判りますが、しゃもじは一年考えても意味がわかりません、
もっとも判ってしまったもう見に来なくてもいいわけで、
疑問が多いほど、待つ楽しみが増えるというわけでございますな。
祭りは山におられるはずの山神様に、里まで下りてきていただく
というのが秋祭りの意味だったはず、
すると、あのしゃもじは五穀豊穣を表しているのかもしれませんよ。
単調なお囃子と無言劇とは、なんと奥が深く興味の尽きないもの
でしょうか。
今年も、彼方此方で里神楽が舞われるはず、祭りを追う旅が
ますます楽しみになってきた旅の途中でございます。
(2020年 日本中から祭りが消えた特別な年になってしまった
祭りを忘れないようここに記す)
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