『広小路』という不思議な地名が生まれたのは何時の頃から
だろうか、
広い小路とは巾の広い街路である、
路は人やせいぜい荷車がすれ違う巾があれば事足りた江戸時代、
建物のほとんどが木造であった江戸の町は、ひとたび
火が出れば消す手段を持たない町は全てを焼き尽くされるしかない。
火を消すのではなく、家を壊すことで類焼を防ぐことが唯一の手段
だったのです。
明暦3年1月18日(1657年3月2日)本郷・小石川・麹町の3箇所から
出火した火は瞬く間に江戸城の天守閣を含む江戸町内の六割を
焼き尽くしたのです。
後に明暦の大火、振袖火事と呼ばれた大災害でした、
当然のように江戸の都市改造が行われたのは言うまでもありません、
武家屋敷、大名屋敷、寺社の移転、防衛上橋を架けなかったことで
多くの犠牲者がでたことで、隅田川への架橋、
そして防災の取り組みから、火除地として広小路が設置されたのです、
上野広小路、両国広小路とともに浅草にも広小路が造られました、
広小路は災害復興としてのシンボルでもあったのです、
しかし、時代の移り変わりとともに、広小路の持つ役割も無くなっていき、
現在は、唯一上野広小路だけが地下鉄の駅名として名を残すだけなのです。
浅草でも、もう誰も 浅草広小路と呼ぶ人はいなくなりました。
この広小路界隈で生まれた久保田万太郎氏の「浅草風土記」などを読むと
浅草広小路が懐かしさを持って浮かびあがってくるのです。
車両通行止めの正月三が日、その浅草広小路をゆっくりと歩いてみました、
そうそう、その広小路はどこからどこまでか、
現在の吾妻橋西詰からかつて仁丹塔のあった田原町三叉路までを浅草広小路と
言ったのでして、今は「雷門通り」と読んでおりますが、やっぱり
「浅草広小路」と呼びたいですね。
合併で次々に消えていく地名、一度消えた地名は二度と戻らないのが
この国のやり方、もうそろそろいいものは復活させてもいいのではない
ですかね、
と言うは簡単ですが、地名を変更するには
地方自治法第3条の規定により、名称変更は、必ず、法律や条例で
定めなければならない と規程されているのです、
変えるのも難しいけれど、一度変えた地名を元に戻すのはもっと大変、
以前の名がよくなかったから変えたという歴然とした事実があると
解釈されているのですから、そのよくなかった昔の名へ戻す理由が
見つからないというわけなんです、
「だって懐かしい気がする」とか「その名を聞くと爺ちゃんを思い出す」
なんていう理由は、端から問題外として受け入れられないというわけですよ。
アタシの親父は明治生まれ、人生の最期を浅草でそれも半世紀以上過ごして
いっちまいましたが、その親父が一番愛したのが 料亭一松さん、
「親父さん今日は何処へ」
「広小路の一松だ!」
親父を探すのなら、この店に行けば大抵は会えるというくらい
広小路が大好きだったんですよ。
「おれが生まれたのは広小路の薬種屋の隣だよ」
なんて言いたいじゃないですかね、
でもそれは適わぬ夢、
親父の顔が浮かんでは消えた正月の浅草広小路でございます。
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